―うちの子がどうしてこんなことを― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「さて、エルバアル(ギデオンのこと)の子アビメレクは、シェケムにいる自分の母の身内の者たちのところに行き、彼らと母の一族の氏族全員に告げて言った。『どうかシェケムのすべての者に、よく言って聞かせてください。エルバアルの息子七十人がみなで、あなたがたを治めるのと、ただひとりがあなたがたを治めるのと、あなたがたにとって、どちらがよいか。私があなたがたの骨肉であることを思い起こしてください。』アビメレクの母の身内の者たちが、彼に代わって、これらのことをみな、シェケムのすべての者に言って聞かせたとき、彼らの心はアビメレクに傾いた。彼らは『彼は私たちの身内の者だ』と思ったからである。彼らはバアル・ベリテの宮から銀七十シェケルを取り出して彼に与えた。アビメレクはそれで、ごろつきの、ずうずうしい者たちを雇った。彼らはアビメレクのあとについた。それから、アビメレクはオフラにある彼の父の家に行って、自分の兄弟であるエルバアルの息子たち七十人を一つの石の上で殺した。しかし、エルバアルの末子ヨタムは隠れていたので生き残った。それで、シェケムの者とベテ・ミロの者はみな集まり、出かけて行って、シェケムにある石の柱のそばの樫の木のところで、アビメレクを王とした。」

士師記9章1-6節

 

子は親の背中を見て育つ、と言いますが、必ずしもそれが成り立つわけではなく、反面教師のように育つ場合もあります。そもそも子は神様が両親に預けられた、与えられた存在、だからこそ神様は子どもたちに神様の恵みをいつも語るように(某カルトのような洗脳のようなものではなく)、それは神様の恵みが千代に及ぶ、とこしえに満ち溢れることを願ってのこと。そうして神様に私たちはつながっていく。私たちは親の立場であろうとこの立場であろうと、まず神様が結び付けてくださった神様との関係の中、離れることが内容歩みたいものです。神様の御心が豊かにあらわされることを切に願い。

 

さて、スラエルの民が約束の地に入り、相続地を分配し、ヨシュアの死後、神様がこれまで彼らを導いてきてくださったことを知らず、神様を気にもかけない、第3世代が起こります。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、ということが繰り返されていきます。それでも神様は彼らを見捨てず、彼らの嘆きを聞き、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンとここまで士師を立ててくださりました。そしてギデオンたちの勝利後、彼が生きている間の40年間平安の期間を神様は与えて下さりました。

 

ところが、ここでとんでもない問題がここから起こります。昨日の分かち合いで見ましたように、ギデオンには多くの奥さんがいて、70人の息子がいました。そしてその間で骨肉の争いが起こるのです。ギデオンの子供の数は古代イスラエル王国2代目の王で、とても親しまれたダビデ以上ですが(確認で消えるだけで8人以上の奥さんがいました)、あのダビデでさえ、多くの奥さんから生まれた子によって一家分裂、子どもたちをきちんと見ることができず、家庭内の子供たちの問題に気付かず、多くの問題が起こりました(詳しくはブログのサムエル記のほうで)。

 

そもそもギデオンが晩年様々な誘惑に負け、お金や地位の確立を何気ない形で行っていた姿を見てか、その子アビメレクはその立場にあこがれ、ギデオンは自分や子供は王になるつもりはなく、神様こそが王なんだ、と宣言していましたが、アビメレクの野心はそんなことは関係ない、と自らが王になることを目指します。

 

ギデオンの息子アビメレクは、シェケムにいる自分の母の身内の者たちのところに行き、彼らと母の一族の氏族全員に「どうかシェケムのすべての者に、よく言って聞かせてください。エルバアル(ギデオン)の息子七十人がみなで、あなたがたを治めるのと、ただひとりがあなたがたを治めるのと、あなたがたにとって、どちらがよいか。私があなたがたの骨肉であることを思い起こしてください」と告げて言います。

 

そもそも、昨日の箇所で見たように、ギデオンは民から王になることを願われた時、「私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます」と宣言していた、しかし息子にはそれは関係なかったのです。

 

そもそもの話、昨日も引用させていただきましたが、モーセを通して神様は、王について「…王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。『二度とこの道を帰ってはならない』と主はあなたがたに言われた。多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである」と語られています。

 

そもそも王は神様が選ばれるものであって、アビメレクのように自分がなりたいからなる、偉くなりたいからなる、ではないのです。神様から選ばれる、それは召命というのですが、神様から召し出されるのです。もっというと召命という言葉は何か特別な仕事、立場になることを言うのではなく、仕事をも意味します。つまり、私たち一人一人は、だれがどういったからこうする、ではなく、神様との関係の中にあって築き上げられるのです。神様はあなたにはあなたへの計画を持っておられる、あなたは神様があなたに持っておられる計画にどれだけ信頼しているでしょうか。

 

自分がなりたいように、やりたいようにやろうとして、アビメレクのように、傭兵をお金で雇って自分の兄弟たちを殺す、なんてことはしないでしょうが、自分のやりたいように、という行動は、結果として様々な関係、周りを破壊していきます。神様の御心が築き上げられるどころか、むしろ自分の価値観、土台という上に家を建てればどうなるか、言うまでもありませんよね。

 

私たちには希望がある事を忘れてはいけません。神様が、あなたの真の希望の光となられるということを。そんな絶望的な状況下にあって、知者を通してしかし、ギデオンの末子ヨタムは隠れていたので生き残り、その彼の神様への信仰がアビメレクのこの暴挙、そしてそれに手を貸したシェケムの人たちへの裁きがやがて下ることとなるのです。

 

私たちは自分が納得いかないから、あれこれするのではなく、むしろ王の王たる主にゆだねようではありませんか。私たちがモーセを通して神様が語られたように多くの妻や金銀を求める必要はなく、本当に必要な助け手、また生きるに必要なすべてを与えてくださる。アビメレクの問題は、兄弟をすべて殺そうとしたことから、不信感や不安が彼の内を支配していたのかもしれない。もし他の兄弟が王として名乗りを上げたら自分はどうなるだろう、と。

 

しかし、どうして私たちは神様からいただいたこの命を疑う、不安になる必要があるでしょうか。あなたは神様の御手によってつくられた最高傑作、なんですよ?神様の目にはあなたは高価で尊い存在と言われ、そのあなたゆえに、神の御子たるイエス様があなたを囲む様々な問題や不安、何より罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし、3日目によみがえられたことによって、この十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。

 

私たちは確かに王にはならなくとも、この天地万物を造られ、ここまで愛を注がれた神様の子として迎え入れてくださる、その特権が与えられている、この復活のイエス様があなたと共に世の終わりまで、どんな時も、順境の時も逆境の時も共にいてくださる、なんという恵みでしょう。

 

神様がヨタムを知者を通して残し、この暴挙に出たアビメレク一派に最終的に裁きを(続きの箇所)を行われるように、このイエス様を通し、最後は勝利を得る、神様の御心がなる、のです。私たちは私たちのものではありません。神様によってつくられ、御子イエス様によって買い戻された存在です。だからと言って奴隷のように扱われる、という意味ではなく、神様の御手の内にあり、主権者は神様です。アビメレクのように主権を奪い取ろうとする必要はない、すべてを治め、これだけの愛を注がれたい神様のなされるご計画に身を委ねようではりませんか。私たちはその先に神様の素晴らしい栄光を見させていただけるから。

 

うちの子がどうしてこんなことに…とならないように、神様は御子イエス様を通してあなたを本来あるべき姿へと回復させてくださります。命までかけて取り戻された私たちは、どうしてこんなことを、と嘆かれるようなことをするのではなく、神様の栄光を現す、愛をもって仕えるものでありたいものです。イエス様が命を持ってまであなたを取り戻された中に現わされる御心、ご計画、愛に勝るものはありません。私はこんなにも愛を受けている、ということを日々覚え、この新しくされた命を生きさせていただこうではありませんか。これほどまでに愛されたイエス様が共に、たとえ死の谷間を歩むときでさえ共にいて、導かれ、緑の牧場にふさせてくださるから。