―なんでそうなるの?― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「そのとき、イスラエル人はギデオンに言った。『あなたも、あなたのご子息も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミデヤン人の手から救ったのですから。』しかしギデオンは彼らに言った。『私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます。』ついで、ギデオンは彼らに言った。『あなたがたに一つ、お願いしたい。ひとりひとり、自分の分捕り物の耳輪を私に下さい。』―殺された者たちはイシュマエル人であったので、金の耳輪をつけていたからである―すると、彼らは『差し上げますとも』と答えて、一枚の上着を広げ、ひとりひとりその分捕り物の耳輪をその中に投げ込んだ。ギデオンが願った金の耳輪の目方は金で一千七百シェケルであった。このほかに、三日月形の飾りや、垂れ飾りや、ミデヤンの王たちの着ていた赤紫の衣、またほかに、彼らのらくだの首の回りに掛けていた首飾りなどもあった。ギデオンはそれで、一つのエポデを作り、彼の町のオフラにそれを置いた。すると、イスラエルはみな、それを慕って、そこで淫行を行なった。それはギデオンとその一族にとって、落とし穴となった。こうしてミデヤン人はイスラエル人によって屈服させられ、二度とその頭を上げなかった。この国はギデオンの時代、四十年の間、穏やかであった。ヨアシュの子エルバアルは帰って自分の家に住んだ。ギデオンには彼から生まれた息子が七十人いた。彼には大ぜいの妻がいたからである。シェケムにいたそばめもまた、彼にひとりの男の子を産んだ。そこで彼はアビメレクという名をつけた。やがて、ヨアシュの子ギデオンは長寿を全うして死に、アビエゼル人のオフラにある父ヨアシュの墓に葬られた。ギデオンが死ぬとすぐ、イスラエル人は再びバアルを慕って淫行を行ない、バアル・ベリテを自分たちの神とした。イスラエル人は、周囲のすべての敵から自分たちを救い出した彼らの神、主を心に留めなかった。彼らは、エルバアルすなわちギデオンがイスラエルに尽くした善意のすべてにふさわしい真実を、彼の家族に尽くさなかった。」

士師記8章22-35節

 

時に良かれと思ってしたことも、悪い方向へと向かうことがあります。こんないい人なのに、なんでこんなことを?ということもありますよね。私たちには完ぺきな人なんていない。義人はいない。だからこそ、不完全な私たちだからこそ、完全なる神様にいつも委ね、歩みたいものです。私たちが強いから何かが起こるのではない、弱さの内に完全に働く主が、驚くべきことをなしてくださる、どんな時でも。今日、私たちはだれに、いや神様に何を求め生きるだろうか。

 

さて、スラエルの民が約束の地に入り、相続地を分配した後、神様がこれまで彼らを導いてきてくださったことを知らず、神様を気にもかけない、第3世代が起こります。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、ということが繰り返されていきます。それでも神様は彼らを見捨てず、彼らの嘆きを聞き、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラクとここまで士師を立ててくださりました。そしてデボラとバラクの勝利の後、40年間平安の期間を与えて下さりました。

 

しかしなお民は離れ、苦難の7年の後、民は嘆き、神様を求めた彼らの前に、受肉前のイエス様が来られ、士師としてたてられたギデオンを励まし、神様からの多くの助けの中導かれ、ついに、このミデヤン人に勝利を治めました。

 

そうして平和な時代に向かっていくのかと思いきや、その後は気が緩んでか色々な問題が「内部で」起こってきます。堕落を続ける第3世代の象徴のように。戦いが終えた後、イスラエルの民はギブオンに「あなたも、あなたのご子息も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミデヤン人の手から救ったのですから」と訴えます。

 

これだけ徹底的に勝利を治めた神様を見るのではなく、民はギデオンだけを見、彼に王になってもらって、国を安泰させたいという願いがあったのかもしれません。目に見える王がほしい、と。これはイスラエル王国建国直前にも実は同じような要望が最後の士師サムエルに向けて語られるのですが。しかし実はこの王を立てるという問題についてはいくつか問題をはらんでいます。今の権力者たちの姿を見ればわかるでしょう。

 

第1世代のリーダーモーセは、神様に導かれ、王政について「…王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。『二度とこの道を帰ってはならない』と主はあなたがたに言われた。多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである」と述べています。

 

はい、↑のその後のギデオン、またイスラエルの民がいかにこれに反していたか、よくわかりますよね。多くの妻を彼は持っていた、それ故に骨肉の争いが次の章で始まりますし、王国時代、多くの妻を持ったダビデ、ソロモンはそれぞれやはり骨肉の争いを起こしていきます。

 

古代イスラエル王国建国前、神様は当時の最後の士師サムエルを通して「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。…あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる…」と語られていました。

 

結局のところ、モーセを通していつも律法、というよりも御言葉を自分の傍から離さず、これに従う、もっというなら神様を主とする、王としていつも遜る、その中に神様の平和がなる、それを求めるかどうかなのです。それをしなかった王たちが列王記、王国分裂期、まさにサムエルが語った通りのことがことごとく王によってなされていきます。神様が本来主、王として私たちにすべてを備えてくださる、神様の国とその義とを第一とするとき、そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます、とイエス様が仰られた通りです。

 

しかしここまで本当に誠実に神様に仕えていたように見えたギデオンは王にはなりませんでしたが、その代わりと言っては何ですが、戦利品を求め、民はいいよそれくらい、と言わんばかりに一枚の上着を広げ、ひとりひとりその分捕り物の耳輪をその中に投げ込み、ギデオンが願った金の耳輪の目方は金で一千七百シェケル(19.55㎏)、さらに最後の戦いで得た三日月形の飾りや、垂れ飾りや、ミデヤンの王たちの着ていた赤紫の衣、またほかに、彼らのらくだの首の回りに掛けていた首飾りなどをもらい、ギデオンはそれで、一つのエポデを作り、彼の町のオフラにそれを置くのでした。

 

そもそもエポでというのは祭司のみが着ることが許されるもので、自分の何かの栄誉や見世物、自慢のために着るものではなく、彼らはこのエポデを通して民のために執り成し祈り、またその姿を通して神様のすばらしさを民が知るはずのもの、それを個人的に利用するのでした。しかも、エポデの材料としてはどう見ても間違っています。あくまで自分の栄光のためにこれを造るのでした。そして、それが何か勝利にあやかるようなものとなったため、これが↑にあるように淫行を伴うような偶像崇拝へと進んでいった、神様ではなく、勝利の「象徴」、ギデオンにあやかりたい、的なものになっていくのでした。ここまで神様に助けられ、勇士として勇敢に戦ってきたギデオン、いったい何をやっているのか、という感じですね。ある意味行っていることとやっていることが違う。

 

それでもギデオンが生きている40年の間は平穏に過ごしていましたが、この淫行もあってか、徐々に民の心は神様から離れていき、ギデオンが死んだと同時に早速神様から離れていくのです。そしてこの士師の時代を象徴するように「イスラエル人は、周囲のすべての敵から自分たちを救い出した彼らの神、主を心に留めなかった」のでした。

 

私たちは何でこんなことがあるんだろう、何でこんなに事欠くのだろう、なんで神様はこの必要を満たしてくださらないのだろう、なんで神様は、と嘆くこともしばしばです。しかし私たちは自分を中心にして自分の求める量を自分の器に満たそうとして心も魂も満たされない。しかし、神様は神様の溢れんばかりの恵みを、愛をあなたの内に注ぎたいのです。王の王たる主が、あなたの救い主となられ、あなたに命を注ぎたいのです。

 

私たちは見るべきものを見、聴くべき声を聴くべき方から聞いているでしょうか。神様は私たちが思うことをはるかに超えたご計画をあなたの内に、またあなたを通してあなたが思い悩むところに至るまでその御心を現したい、ご計画を成し遂げてくださる、その神様を私たちはどれだけ信頼しているだろうか。自分が王だ、自分こそ何かを成し遂げる成功者だ、と偽のエポデを着飾っていないでしょうか。

 

神様はあなたの様々な思い煩い、痛み、悲しみ、何より罪で汚れてしまったこの衣を新しくするため、私たちのこれら一切を、罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。そして3日目によみがえられたことによって、この十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としての特権を与える、その子としての衣を着せてくださる、復活のイエス様があなたの内に住まわれ、聖霊様があなたの内に働かれるのです。

 

これだけの愛を受けた今、私たちは何でこうなるの、と自分の思いを求めるのではなく、神様のご計画が、御心がなることをいつも祈ろうではありませんか。私たちが王である必要は、神である必要はありません。あなたを造られ、あなたのために御子イエス様の命さえ惜しまない神様があなたの王としてあなたをすべ治め、養い、どんな時もその必要を満たし、導かれるから。そこに広がる栄光を待ち望み、神様から離れず歩ませていただこうではありませんか。