―あなたの一瞬一瞬への愛、輝かしい日々― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。イエスは、その女を見て、呼び寄せ、『あなたの病気はいやされました』と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。『働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。』しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。』こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。」

ルカによる福音書13章10-17節

 

今の世の中、明日何があるかわからないくらい目まぐるしく変化しています。しかし、私たちは今日という日を、神様があなたの内に注いでくださる一日一日の恵みを忘れてはいけません。あなたがどんな状況にあろうとも、神様の愛は決してあなたから離れることはない、あれこれ理由をつけて、これはたまたま、とか、それは望んでいることではない、などといってこの恵みを手放すことなく、神様が輝かせてくださる一日一日に感謝し、歩もうではありませんか。

 

さて、神の御子たるイエス様が人となって生まれ、公生涯を歩まれていたある安息日、いつものように、会堂で教えておられました。↑のような特別な出来事があるからイエス様は会堂におられたのではなく、イエス様はいつも安息日には会堂におられたのでした。もちろん普段も、あちらこちらを旅しながら、多くの人と出会い、時には自ら必要と判断して、本来通る必要のない町を通ってまでも、誰かに出会いに行く、ということはあったのでした。イエス様にとってはもちろん会堂で教えること、福音、私たちにとって必要な事をいつも語られていたことでしょう。

 

ただ、イエス様はいくつもある会堂の中でここをその日選ばれたのは、↑に登場する女性のため、ここに来られたのではないか、と思います。私たちは神様に対して変な疑念を持っていることがありますが、神様は私たちを決して無視することはありません。むしろ私たちが神様に立ち返ることを、祈り求めるのを待っているのではないでしょうか。イエス様はいろんな人に出会われ声をかけられたことは分かち合わせていただきましたが、その声に耳を傾け従うかどうか、それは私たち次第なのです。そしてそれが実は↑の出来事で明白になっています。

 

話を↑に進め、イエス様が安息日に会堂で教えておられると、「そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。イエスは、その女を見て、呼び寄せ、『あなたの病気はいやされました』と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。『働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。』しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。』こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ」という出来事がありました。

 

18年も病の霊につかれる(=持っている、という意味もあります)女性、腰が曲がり続け、伸ばすこともできない、どれだけつらいことでしょう。しかしイエス様はその女性を癒されるのでした。悪霊につかれた女性を呼び寄せただけではなく、宣言するだけではなく、彼女の上に手を置かれ、触れ、彼女の人生を丸ごと癒されたのです。

 

ところが、会堂管理者はこれに腹を立てます。安息日は何をしてもいけない、と。しかしこれまで旧約聖書の分かち合いの中でも見てきましたが、安息日というのは神様の定められた聖なる日、特別な日です。人間がどうのこうの難癖をつける日ではありません。もちろんいうまでもなく神様が悪いことを私たちに何かするわけはありませんが。

 

それに律法の本質は、神様を愛すること、まず神様の義とその義とを第一に求めることであり、またあなたの隣人をあなた自身のように愛することにあります。それに、レビ記でも散々分かち合ってきましたが、困っている人に助けの手を閉ざすことはあってはならないことを訴えてきた、それなのにもかかわらず、今目の前に困った人がいるのに、助けない、というのはあり得ない話でした。

 

裏を返せば神様は今目の前で困っている人を見過ごすことなど決してなさらい方なのです。あなたを神様は見捨てることはできないのです。本来の宗教指導者なりなんなりが助けなければならないところ、その隣人を無視し続けた、その彼女をそれでも見放すことができず、悪霊につかれて近寄りがたい、とも考えず、その御手を置かれたのです。

 

イエス様は彼らを偽善者、と言っています。ただの安息日論争を超えて、じゃあ他の6日間、18年間、あなた方は見て何もしなかったのか、と。彼らには彼らなりの安息日に関する考え方があったのかもしれない、しかし、恥じ入ったということは相当な話です。しかし、このイエス様との出会いの中で神様に立ち返るかどうか、それは彼ら次第なのです。18年病の霊に取りつかれていた女性は癒された。女性は安息日だから申し訳ない、とは考えずに、今イエス様が自分を呼んでくださった、そんなイエス様の前に安息日など関係なく喜びがあふれかえったのです。彼女の暗闇の人生は輝かしいものに変えられたのです。もちろん会堂管理者たちにもです。彼らがイエス様の奇跡の前に恥じ入って終わり、ではない、彼らがもし悔い改めて、これまでの自分で自分を縛り付けていた古い価値観、古い革袋から、新しい革袋に変えていただくとき、彼もまた変えられるのです。

 

私たちの命を本当の意味で輝かせてくださるのは、何かをしたら、ではありません。イエス様の命にあって、イエス様に出会い、イエス様の究極の愛、十字架の前に悔い改め立ち返る中で、私たちは変えられるのです。ある一部分だけではない、丸ごと変えられるのです。イエス様の十字架の死で終わらず復活されたのはまさに同じ恵みに、新しい命に私たちを招くため。

 

私たちはある一時だけの輝きを求めるのではなく、イエス様のこの十字架の前に立ち返り、神様がイエス様の命を持ってまで注がれたこの愛によって輝かせていただこうではありませんか。そのうちに神様の驚くべき御業が、御心が広がっていくから。神様に休みはない、あなたが今日救いを、命を求めるなら、主は喜んであなたに応えてくださるでしょう。今がその時です。私たちは御霊様によって一新させていただき、その栄光が輝く歩みをさせていただこうではありませんか。あなたのゆく道に共にいてくださる方はあなたのために命さえ惜しまなかったイエス様なのだから。そのイエス様が開かれた新しい命、自由とされたこの道を喜び歩もうではありませんか。