ーそれってどうなの?裁判ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「人と人との間で争いがあり、彼らが裁判に出頭し、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判決が下されるとき、もし、その悪い者が、むち打ちにすべき者なら、さばきつかさは彼を伏させ、自分の前で、その罪に応じて数を数え、むち打ちにしなければならない。四十までは彼をむち打ってよいが、それ以上はいけない。それ以上多くむち打たれて、あなたの兄弟が、あなたの目の前で卑しめられないためである。脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。」

申命記25章1-4節

 

SNSの発展とともに、ネットによる私刑が行われたり、謂れのない、根拠のない情報によって誰かを傷つけることが非常によく近年見られますね。いや、ネットと言わずとも裁判所ではない、自分たちの周りにおいて裁判と言う名がついていない裁判が横行している(いじめなど)。それを隠蔽する方もそれはそれで問題があるわけですが。ただ、人は完全ではないし、どうしても主観、感情移入があるので正しく判断するのは難しいです。ただ、神様は感情はありますが、それでも正しく治めてくださる。えこひいきをされる神様でもない、そこからあるべき道へ導いてくださる。私たちはわからないからこそ、いや私たちの道を照らされる神様に信頼し、共に歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。ここのところ「それってどうなの?」と思うようなことを見てきていますが、今回は裁判と、その本質的な目的について語られていていきます。ただ裁いて終わり、ではなく。

 

そもそもの話ですが、物事を正確に正しく判断する、というのは育成環境や価値観の違いなどから相当難しい話です。裁判、と言わずとも友達同士のいざこざが起こるときでも、何かしらの思いがあって、そこから始まるわけです。ちなみに、私も中学生の頃に、学校に多大な寄付をしていたある土建が学校建設にだいぶ関わっていたらしく、その息子は野放しにされ、その同級生に言われもなくのこぎりをもろに投げられたことがあります。そしてそこに逆らえない教師、同級生は当然ある意味で自分の考えで止めることはできない。

 

考えてみれば現在の形とは違うにしても、神様はきちんとした裁きについて定められています。ここまで証人の人数についてや、「逃れの町」というものを「神様が」設けるように仰られ、過失致死によって復讐され命を落とすことがないよう、きちんと調べてその上で町に迎え入れて血の復讐者から守るか、嘘だから引き渡すか、を判断するよう「祭司」から選ばれている裁判官に指示されています。神様にこれを委ねる、その中で正しい判断ができるように、という思いがあるのでしょう。

 

↑の本文を見る前に色んな事を見ていますが、↑の神様の定められたこと、神様が導かれたモーセに語るように導かれた、「人と人との間で争いがあり、彼らが裁判に出頭し、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判決が下されるとき、もし、その悪い者が、むち打ちにすべき者なら、さばきつかさは彼を伏させ、自分の前で、その罪に応じて数を数え、むち打ちにしなければならない。四十までは彼をむち打ってよいが、それ以上はいけない。それ以上多くむち打たれて、あなたの兄弟が、あなたの目の前で卑しめられないためである。脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない」というメッセージの本質を見逃したらただ何かで罰せればそれでいいんでしょ、となってあまり意味をなさなくなってしまいます。

 

鞭打ちくらい、とおもうかもしれませんが、時代にもよりますが、貝殻や釘がついて、打ったら皮膚が引き裂かれる(イエス様が打たれた鞭はまさにそのタイプ)ようなものもあります。結構厳しい。でも、人の感情、主観で物語をとさばくと、必ずしも正しい方向に行かないこともしばしばあります。ただ人の経験や主観で見るといつも正しく判断できるとは限りませんし、冤罪が出たりすることもあれば、本当の意味で更生に向かえないわけです。

 

イエス様は、旧約聖書でこれまで見てきた裁判の規定などを知っている上で、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」と語られています。

 

それはイエス様が神様の仰っていることを否定しているというわけではありませんし、神様が↑の時に、間違ってこうしなさい、と仰られたわけではありません。自分たちの方法でさばこうとすればそのとおりになります。しかし、私たちは正しく判断することは先程から申し上げてきています通りできません。プロと言われる裁判官でも冤罪が出てくることだってあるわけですから。なぜか?1から100まで彼らは全部見ているわけでもないし、感情や思いを知っているわけでもなければ証言者の真偽を本当の意味で正しく判断するのは難しい、だから過去の判例をもってくるわけです。

 

じゃあ野放しにすれば良いのか、と言われたらそうではありません。梁、ちりを取り除いてください、と神様に祈り委ねる、神様に正しく導いていただく、これが必要なのです。裁判と言わずとも、今の世の中、判断が難しい事例が多くなってきていますが、神様は「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」と、神様が主としてすべてをご存知、導いてくださるから、自分の手で判断を下すのではなく神様に祈り求める、委ねることを仰られているのです。復讐よりも、神様が正しく判断、知恵を与えてくださるから、祈り求めるように、と。

 

だから私たちの手で裁いてはならない、というのです。神様の目で、神様に祈り、どうすべきなのかを委ねようとおっしゃるのです。裁判であろうと、私たちが進むべき道、判断であろうと。神様は私たちの行路を、御言葉をもって、愛をもって導かれる。神様はただ口先だけ何かを仰るのではなく、私たちを実際に導くために、御子イエス様を人となって生まれさせてくださったのです。

 

では何のために↑で鞭だの何だの、という話が出てきているのか。これこそ神様の本当の思いなのです。ただ罰して終わり、ではなく悔い改めに導くこと、本来あるべき道に変えることを何より願っておられるのです。本当の意味での更生・回復を何より願っておられるのです。

 

だからこそ、イエス様はただ観光とかそういう目的で地上に来られたわけでもなく、大人の姿で来られて期間限定で一緒に過ごされたわけでもなく、私たちを癒やし、また背負う重荷を一つ一つ、身代わりにせ終われ、十字架前に道を打たれることで私たちが本来受けるべき鞭を、傷跡を剥がし、新しくなるべく、私たちの身代わりにその身に受けられ、十字架にかかられ死なれた、そして3日日によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改めた近えるすべての人の罪をゆるし、新しく生まれ変わらせていただける、神様のことして迎え入れていただけるのです。裁いて終わり、見捨てるのではなく、一緒に世の終わりまで、天の御国にゆくその日まで私達を導いてくださるのです。どんな時も。

 

「その悪い者が、むち打ちにすべき者なら、さばきつかさは彼を伏させ、自分の前で、その罪に応じて数を数え…」と↑にありますが、私たちのこれまでしてきたことって40では足りませんよね。でも、数え切れないぶん、いや私たちの痛みもすべてをイエス様は引き受けてくださった。卑しめをも取り除いてくださり、もう罪人というレッテルは剥がされ、神様の子として目に見えない証印が押されているのです。この命がけのあいがあなたを覆い、神様の愛が、御心があなたのうちを満たし、あるべき姿に回復させてくださる、神様が本来あなたに持っておられた最高のイメージに。

 

脱穀する牛にくつこ(脱穀しているものを食べさせない)をかけ支配するのではなく、罪から、闇から解き放ち、自由、神様の恵みのうちへと今日も導かれようとイエス様が御手を伸ばされている、この愛に信頼し、委ね、ともに歩ませていただこうではありませんか。この命をかけられたイエス様に信頼し。「あなた(神様)は私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあ」るから。