ーそれってどうなの?結婚・離婚・人間関係ー | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、彼女が家を出、行って、ほかの人の妻となり、次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務をも負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。」

申命記24章1-5節

 

日本もかつては、まあ今もその様相が見られますが、女性の立場が非常に弱い。というよりも、どっちが上でどっちが下、なのではなく、役割の違い、そこにあるような気がします。本質を間違えると、聖書では女性はこれこれこうあるべき、と書いてあるから、と牧師などに認めない、というケースがたまに見受けられるのですが、逆にリーダーとして経っている女性もまた聖書には登場します。まあ解釈の違いなのかもしれませんので、そういう立場を取っているところを責めるつもりはありませんが。むしろこの世ではこういう考え方なのだから、我々はこういう考えなのだから、ではなく、神様のみこころは何か、何が良いことで、神様に受け入れられ、完全であるのかをいつも祈り求めていこうではありませんか。神様のベストがいつもなる事を祈り。

 

さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。↑では結婚と離婚・人間関係について語られています。

 

↑の最初の文を読んだ方は下手をすれば不快に思う方も入れませんが、これは分かち合う上で、相当悩ましい箇所になっています。何で女性だけ?と思う方もいるかも知れません。離婚をできるのは男性側だけ、と見えてしまいますが、そうではないのです。まあ私自身も偉そうにこの箇所をぺらぺら語れるほど出来た人間ではないので、とてもこの箇所は私自身も教えられます。

 

まず神様に導かれ、モーセは「人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、彼女が家を出、行って、ほかの人の妻となり、次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべきことである」と語ります。

 

しかしそもそもの話が、結婚という物自体がそんな単純にくっついては離れ、というものではないのです。パウロという1世紀の伝道者は「『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい」と手紙で書き送ります。

 

神様ご自身もアダムとエヴァが出会った時、やはり「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」と語られています。ある意味では独立。そして1つとなる。これは、当時の接着剤的なもので一番最強のものだったそうですが、無理に引き剥がそうとすれば傷がつく、というほどがっちり1つとなる、という言葉が使われています。

 

それはイエス様と教会の関係も同じで、イエス様が中心となり、イエス様を無理に引き剥がそうとすれば、あるべき姿にはなりえず、傷ついたものとなってしまう。むしろ、パウロが「それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい」と書いているように、愛し合い、また敬いあう、それが求められているのです。男女のどっちが上、ということはありません。エヴァは「助手」ではなく「助け手」として与えられた。でも、アダム・男性も「愛する」ことを語られています。

 

話を↑に戻して、一見結婚・離婚は単純に繰り返していい、ように見えますが、今述べたようなこと、神様の仰られていること、そこから離れないことを踏まえてもそうではないことが明白ですが、さらにこのモーセの律法についてイエス様が尋ねられたことがありました。

 

2つの福音書でイエス様は語られています1つは「パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。イエスは答えて言われた。『モーセはあなたがたに、何と命じていますか。』彼らは言った。『モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。』イエスは言われた。『モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れ、その妻に結びついて、ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。』」と。

 

もう1つは弟子も絡んでくるのですが、条件をつけて「パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。『何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。』イエスは答えて言われた。『創造者は、初めから人を男と女に造って、【それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる】と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。』彼らはイエスに言った。『では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。』イエスは彼らに言われた。『モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。そして離縁された女を妻とする者は姦淫を犯すのです。』弟子たちはイエスに言った。『もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。』しかし、イエスは言われた。『そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい』」と。

 

弟子たちでさえ「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです」というほど(一生独身)に結婚・離婚がないがしろにされていたのです、当時は。それはモーセの時代から何も変わっていなかったのです。これは男性であっても不貞についてはだめ、とイエス様は仰っています。

 

話をまとめて、この不貞、というのはどういうことなのか。というよりも、人の弱さから、どこかで姦淫ではない罪、問題が発生するのは目に見えています。しかし、↑で新婚の兵役免除期間に触れられていること(一体となる夫婦が神様の恵みを一緒に仰ぎ見ていくスタート)や、かたくなな民のことを考えると、「神様に繋がっている」こと、教会とイエス様が一体であるように、私たちもやがてイエス様の花嫁として迎え入れられます。そのために私たちから罪を剥がすために、身代わりに十字架に加家られ、罰せられ、死なれたのですから。そして3日目によみがえられたことによって、私たちをもう一度神様の御もとにひきよせてくださったのだから。

 

私たちは花嫁として迎え入れようと命をかけて愛してくださったイエス様から離れず歩もうではありませんか。結婚・離婚・人間関係、いずれをとっても私達はイエス様から離れず歩みたいものです。神様がいずれに対しても、最善へと導いてくださるから。私達は神様の御心、立てておられる最善のご計画に信頼し、祈り、歩もうではありませんか。今日、神様の愛に帰ろう。神様の愛が皆さんの内に溢れますように。