ー立つ鳥跡を濁さず、を超えたものー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。『実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。どんな家に入っても、まず、【この家に平安があるように】と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。どの町に入っても、あなたがたを受け入れてくれたら、出される物を食べなさい。そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、人々があなたがたを受け入れないならば、大通りに出て、こう言いなさい。【私たちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。】…』」

ルカによる福音書10章1-11節

 

立つ鳥跡を濁さず、と言いますが、それはある意味では悪いものを残さず、とも取れるかと思います。しかし、せっかくであった場所、人、その関係の中に何も残らないのも寂しい話です。神様はあらのに道を、砂漠に川さえ流される方。この神様が、あなたのうちに何をたてあげてくださるのか、私たちはイエス様をお迎えし、この喜びに歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑はイエス様が人となってお生まれになり、公生涯を歩まれていたある日のこと、イエス様は12弟子とは別に70人の人を、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになりました。このときイエス様は彼らに「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい」と仰られました。

 

これは、働き手がいなく貧しいから、財布も旅行袋も、靴もはかずに行かせる、というわけではありません。貧しく見せてお金をもらいたいからそうさせるわけでもありません。イエス様は、彼らの主です。そして遣わすからには見捨てる、というわけではなく、むしろ必要を満たしてくださるのです。その素晴らしさを彼らに体験させたい、という思いがあったのではないでしょうか。事実、彼らが悪霊を追い出す権威をも与えてくださっていましたし、そこに確かに神様の御技が溢れたのです。

 

そして、もう一つ忘れてはいけないのは、イエス様が、神の御子イエス様が遣わされた、ということ。それは神様の恵みを届けようと、その思いで派遣したのではないでしょうか。12弟子ではないから何も大したことのないことが行われないのではない、誰々だから良いことが行われるのではなく、奇跡が行われるのでもなく、ただ神様の御心が現される、あふれることがイエス様の願いなのです。事実、12弟子やパウロ、それ以外にも多くの人が1世紀、また後の時代も活躍します。彼らがすごい、誰々がすごいのではなく、ただ神様の美馬絵に謙遜にへりくだり、委ねる、その中に神様の御技が現されていくのが見えてきます。

 

じゃあなぜ「どの町に入っても、あなたがたを受け入れてくれたら、出される物を食べなさい。そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、人々があなたがたを受け入れないならば、大通りに出て、こう言いなさい。【私たちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい】」と分けられるのか。

 

受け入れなかった人たちは捨てるのか?いえ、考えてみればペテロも後にイエス様を3度に渡り否定します。あのイエス様の十字架にかかられる直前、自分も捕まるのではないかと恐れ。最後は呪いをかけてまで否定したのです。しかし復活のイエス様は彼を悔い改めに導き、彼の罪は許されました。そして使徒として用いられていきます。

 

そう、「私たちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい」とありますが、じゃああなた方のことはもう知らない、と見捨てるように、というわけではなく、確かに神様の国が近づいていることだけは覚えておいてね、と訴えたのです。確かに神様はここをも覚えているよ、というメッセージそのものではないでしょうか。

 

イエス様はある特定の人のために来られたのではない。イエス様は、王宮のような宮殿ではなく、当時貧しい大工の家に生まれ、一番最初にイエス様誕生の知らせを受けたのは、羊飼いというこれまた社会から弾かれていたような人たちだった。彼らはイエス様に会うと、喜び踊って帰っていった、と言います。また、十字架にかかられる前、ロバの子に乗ってこられた。軍馬で偉い態度を取ってこられるのでもなく、最もへりくだり、十字架を、私たちの痛みも悲しみも、何より罪をせ終われ、私達の身代わりに十字架にかかられたのです。

 

そうして、私たちの受けるべき罰・十字架・死を交換され、復活とともに新しくされた、私たちは塵どころか、復活のイエス様が私たちのうちに住まわれ、その恵みが満ち溢れるのです。イエス様があなたのうちに命をもって現して下さるご計画、恵みに期待し、信頼し、私達はイエス様を受け入れよう。受け入れて何になる?のではなく、まずイエス様ははじめに愛を示された。私達はこれを受け取ろうではありませんか。ここに芽生える多くの実を収穫させていただける、収穫に大いに期待しよう。