「これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めである。あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。あなたがたの神、主に対して、このようにしてはならない。ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。あなたがたがまだ、あなたの神、主のあなたに与えようとしておられる相続の安住地に行っていないからである。あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。」
申命記12章1-14節
自分が正しいと思うことを押し通していくとどうなるか、自明な話ですよね。それと同時に、じゃあ大衆迎合を選べばいいというわけでもありません。もしそれが間違っていたら?という話になります。それは民主主義の否定では?と言われるかもしれませんが、それ以前に、私たちは神様が置かれている幸せがいかに素晴らしいか。自分が正しい、神様が時分の願いを叶えてくれないから神様が悪いんだ、となるのではなく、私たちは神様に信頼し歩もうではありませんか。
さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。↑では、ここから約束の地に入っていく上で注意しなければいけないことが語られます。
ということで、モーセは神様に導かれ、「あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。あなたがたの神、主に対して、このようにしてはならない。ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい」と続けて語ります。
これは分かりやすく言いますと、異教の神々の像を破壊すること、そして神様に立ち返ることなのですが、なぜこれらを破壊しなければならないのか。色んな理由がありますが、まず第一はこの直前の箇所で神様は祝福と呪いを置く、神様が祝福される、その内に生きてほしい、逆に神様から離れたところには神様の恵みはなく、ほんとうの意味での幸せを得ることはできないのです。
どちらかを選びなさい、とおっしゃっていますが、十戒を振り返りますと、第2戒に「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」と神様は定めておられます。
神様は恵みは千代にまで施される、と約束されています。何代、という数字以上に永久の恵みを神様は注ぎたい、だから、これらの偶像にとらわれることを神様は良しとしない、その影響は測りしれず何代にも及ぼされるからです。
今の時代は確かに偶像のようなものを造る人は少ないかもしれない、しかしパワースポットだの占いだの、そうしたものに人はとらわれます。しかし、それは結局自分が良くなるため、いや良くなった「気がする」だけであなたに何の力も与えることはできないのです。なぜならそれは生きてはいないから。むしろ、偶像、あなたが頼る背景にあるもに縛り付けられてしまうのです。
後にイスラエルの民が約束の地に入った後、3代目になると、現地のことは現地の習慣に従うべし、神様ではなく、その民族の拝む偽神を崇拝する習慣がついた結果、豊穣を願って淫行の伴う祭りを行わされたり、火の中をこどもを通させたり、もはやカルトそのものです。しかし、そうすることでもしかしたらたまたま得た結果をまた得られると思って繰り返し、本人が傷ついていく、それが後の世代まで続く、そんな事を神様が喜ぶと思いますか。いえ、それであなたは良いのですか?わけのわからない、責任も取れない偽物に支配されて。
話を戻し、なお「その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。あなたがたがまだ、あなたの神、主のあなたに与えようとしておられる相続の安住地に行っていないからである」と語られます。神様は、あなたを祝福し、あなたを喜び楽しませて下さる。そのために神様は「一緒に」この旅路を見捨てることなくどんな時も共に進まれたのです。彼らが好き勝手にしても見捨てなかった。何とか喜び楽しみを得てほしいと神様は御手を伸ばされ続けたのです。神様は「家族の者」とおっしゃるように、確かにその祝福を広げてくださる。神様の家族へとあなたを、裾野を広げ、招いてくださるのです。気ままにしか得られない、時々しか得られない喜びではなく、どんなときも一緒に歩まれる神様が。
もっと言えば、あなたを神様の家族・子として迎え入れるため、勝手気ままに生きてきた私たちの罪を身代りに御子イエス様に背負わせ、身代わりに十字架にかけ、死なせたのです。そこまでしてまで、あなたへの愛を実行されたのです。そして死は死で終わらず、3日目によみがえられたことによって、私たちに新しい命、扉を開かれたのです。このイエス様の十字架による救いを信じ受けいれる全ての人の罪を赦し、神様の子とされる、神様の子としての特権が与えられるのです。
神様は気ままな神様ではなく今も生きておられ、御子イエス様の命さえ惜しまないほどにあなたを愛されている。あなたが滅びるのではなく永久の恵みを注ぎ、世の終わりまで、出エジプトさせていただき導かれているイスラエルの民のように、どんな時もあなたと共に進まれ、養われ導かれるから。その愛を、御心を現してくださるから。私たちはこの神様に信頼し、気ままにではなく悦びを持って友に歩ませていただこうではありませんか。
