文豪トルストイが、かつて日本の友人、小西増太郎氏に送ったといわれる、幻の聖書が、広島で発見されたことが以前、新聞に報じられました。
「青鉛筆のアンダーラインが、各ページにびっしりと惹かれた、それは小型のロシア語聖書。上下に小刻みに触れたギザギザの線は、聖書の真理に少しでも近づきたいという、文豪トルストイの苦悩ぶりを示すグラフのようであった」という。
そして、その聖書には、一枚の紙きれが挟み込まれていました。それは、トルストイがロシア語で書いた人生要訓でした。
「われわれは、人生の使命を知らなければならない。すでに知っているならば、たゆまずこれを実行しなければならない。なぜなら、人生その時、その時が、常に、人生の最後かもしれないからだ」。
本当にその通りだな、と思う。一日一日、今日が最後だと思って。神様から与えられている恵みを十分味わい、また分かち合い生きる。
ただ、一方でトルストイはある御ことばを間違って受け取ってしまった結果、国家も教会も家族まで捨て、さすらいの旅に出て、最後は孤独な死を遂げてしまった。
じゃあ大事な使命とは何だろう。イエス様はこうおっしゃられた。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの主なる神を愛せよ。』これが第一の戒めである。第二もこれと同様である。『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』。これら2つの戒めに、律法全体と預言者と(要するに聖書全体)がかかっている」と。
まさにこの3つの愛に生きることにあるのではないか。
今こそ、神様に立ち返り信頼しよう。今日神様から与えられているものを考えよう。私たちは様々な状況を見て不足し、不安になる。でも、神様は十分与えてます。
イエス様はこうおっしゃられました。
「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
神様はあなたに御子イエス様のいのちとともに十分な恵みを与えて下さっている。それに不安になって買い占め、それによる世の中ぎすぎす感が溢れているけど、私たちがこの愛を外にも向けていく時、そこから神様の栄光が広がっていく。御業が広がっていく。不安、不足は神様が十分に満たしてくださる。誰かを通して。または神様の直接的介入をもって。いろんな人が自分の手元にある技術やマスクさえ必要な人に届けたい、と応答し始めていると聞きました。
私たちはこの時、もう一度神様との関係を見直したい。あれがないこれがない、あれがうまくいかない、これがうまくいかない、の前に、神様があなたを養いたい、必要を満たしたい、と注がれている恵みを、愛を、もう一度見つめなおしたいものです。
このイエス様のいのちにあって与えられている一日一日を、3つの愛に生きよう。
