ーあなたは宝ものー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたが、入って行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主はあなたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」

申命記7章1-6節

 

私たちは自分の価値をどう評価するだろうか。能力によって?地位によって?見かけ?性格?そんなものは人それぞれですから、それによって見る必要はありませんし、相手を評価するのも問題があります。人それぞれですから。なにより、人は神様によって造られ、良しとされた、もっと言えば罪に陥った私たちを見捨てず、み恋絵すさ魔の命を惜しまず与えるほどに愛してくださっている存在、あなたは神様の最高傑作、愛された宝。私たちはこの神様が私たちの内になしてくださることに大いに信頼し、歩もうではありませんか。

 

さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に前章から入っています。この7章においても6章に続いて愛、神様の愛について語られていきますが、↑は特に自分たちと周りの人たちとの関係について語られています。

 

話を↑に進めて、モーセはなお「あなたが、入って行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない」と続けます。これはタイトルとは似つかないほどに強烈な言葉であり、神様は愛なのではないのですか?と突っ込まれそうな話ですがそうではないのです。

 

話がそれますが、ある人がこの7部族を、7つの大罪とよばれる、傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰に当てはめて、これに気をつけるように、と説明される牧師もいるのですが、そもそもの話、人の罪をそうしたカテゴリーに分けること事態がずれていて、罪というのは神様から離れる、神様を神様としないことから始まるのです。

 

そういう意味で、何に気をつけるのか、容赦しないのか、そこが神様がモーセを通して訴えたいことではないのです。時代を考えると、ペリシテ人や列強各国が彼らの入っていく土地の周りにもいましたし、それらの国々がイスラエルを誘惑、誘い出そうとします。そして、実際、前の章でも見ましたが、ヨシュアが召天した後の第3世代は、郷に入らずんば郷に従え、の郷をを間違え、他の神々を拝むようになって自滅していきます。なぜならその神々は偶像、偽神であり、何の力も彼らに与えることは出来ず、かえってカルト宗教によって苦しめられ、あらゆるものを搾取されていきます。

 

神様は、それらの部族を追い払ってくださるよ、渡されるよ、と約束してくださっているのです。それは、私たちの手に委ねられています。渡された後どうするか、妥協するのか、それともこれらに従うのではなく、問題に、自分たちを囲う様々な煩い、敵に屈するのか、それとも「聖絶」、一言で言うと、完全に絶つこと、もっと言うなら神様にお返しする、委ねるか。自分のみを神様に委ねる、その中にあって、5−6章で見たように、神様はあなたをしあわせにしてくださる、あなたのうちに神様の豊かな実を結ばせて下さるのです。

 

それにしても、「また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。彼はあなたの息子を私から引き離すであろう」という言葉は厳しい、差別ではないのですか?なぜ彼らはだめなのですか?と思う方もいるかも知れませんが、実はパウロはその手紙に、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう」と訴えています。

 

これは真を突いていると感じませんか?「不信者」という言葉は強烈かもしれませんが、釣り合わない軛を負っていてはどうにもならないのです。イエス様も、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」と仰られています。イエス様が一緒にむしろくびきをおってくださるのです。差別云々を超えて、むしろ神の御子たるイエス様が、わざわざ私たちと一緒にくびきをおってくださり、平安をもたらしてくださるのです。これ以上力強く、心強い話はないのではないでしょうか。

 

むしろ神様とこの世と調和を合わせるのではなく、神様と調和を合わせる、そこに命があるのです。平安があるのです。ちなみに、10代経ってもイスラエルの民に加わってはいけない、とほぼ絶縁宣言のようなものをだされていたモアブの一人の女性ルツは、家族を失いながらも神様をしたい求める姑が信じる神様をもっと知りたい、求めたい、とイスラエルに一緒に来て、民に加えられますし、↑のカナン人の中でも、イスラエルを助けた遊女ラハブ一族も絶たれることなく神様の民、神様の家族へと加えられるのです。実は聖書をよく読むと、そういう人たちはたくさんいます。

 

神様は、引き離されることよりも、怒りを燃え上がらせることよりも、神様に帰ることを何より願っておられる、なぜなら彼らは神様の宝の民であり、あなたもまた神様の宝だからです。だからこそ、予め神様はモーセを通してそうならないよう訴え、むしろ神様にお返しする、神様のくださる恵みのもとに招くことを訴えているのではないでしょうか。

 

先程例に上げましたルツ、ラハブ(特に彼女はこれから入っていく土地の部族です)、彼女たちはそれぞれおぞましい宗教や暗闇に閉じ込められていました。しかし、神様はむしろ彼女たちを囲い苦しめる様々なものを打ち砕いて、彼女たちを神様のもとに招いてくださったのです。神様は彼女たちに、また私達に御手を差し伸べ、神様の家族・子として迎え入れ、宝とされ、愛を注がれるのです。

 

そのため、本来私たちに燃え上がるはずだった罪への炎を御子イエス様に降された。私たちの罪を身代りにイエス様に背負わせ、十字架にかけ、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、同じようにイエス様に立ち返るすべての人の罪を赦され、同じ復活の恵みに与らせていただき、かみさまのこ・宝として迎え入れられるのです。

 

このイエス様の命がけの愛、結ばせていただいた関係、新しい命にあって、イエス様から引き離すことができるものは何者もありません。剣も迫害も、飢えも一切、あなたを打ち砕くことは出来ません。むしろそれらを追い出し、神様があなたの内に完全に働かれ、御心を現し、驚くべき御業をなして下さる。このイエス様の指し述べられた御手を取らせていただき、離れず、世の終わりまで歩ませていただこう。イエス様もあなたから離れないのですから。