ー未来の予告の意味ー | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「そこでバラクはバラムに対して怒りを燃やし、手を打ち鳴らした。バラクはバラムに言った。『私の敵をのろうためにあなたを招いたのに、かえってあなたは三度までも彼らを祝福した。今、あなたは自分のところに下がれ。私はあなたを手厚くもてなすつもりでいたが、主がもう、そのもてなしを拒まれたのだ。』バラムはバラクに言った。『私はあなたがよこされた使者たちにこう言ったではありませんか。【たとい、バラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、主のことばにそむいては、善でも悪でも、私の心のままにすることはできません。主が告げられること、それを私は告げなければなりません。】今、私は私の民のところに帰ります。さあ、私は、この民が後の日にあなたの民に行なおうとしていることをあなたのために申し上げましょう。』そして彼のことわざを唱えて言った。『ベオルの子バラムの告げたことば。目のひらけた者の告げたことば。神の御告げを聞く者、いと高き方の知識を知る者、全能者の幻を見る者、ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の告げたことば。私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。その敵、エドムは所有地となり、セイルも所有地となる。イスラエルは力ある働きをする。ヤコブから出る者が治め、残った者たちを町から消し去る。』彼はアマレクを見渡して彼のことわざを唱えて言った。『アマレクは国々の中で首位のもの。しかしその終わりは滅びに至る。』彼はケニ人を見渡して彼のことわざを唱えて言った。『あなたの住みかは堅固であり、あなたの巣は岩間の中に置かれている。しかし、カインは滅ぼし尽くされ、ついにはアシュルがあなたをとりこにする。』彼はまた彼のことわざを唱えて言った。『ああ、神が定められたなら、だれが生きのびることができよう。船がキティムの岸から来て、アシュルを悩まし、エベルを悩ます。しかし、これもまた滅びに至る。』それからバラムは立って自分のところへ帰って行った。バラクもまた帰途についた。」

民数記24章10-25節

 

人はある意味で未来を知りたい。なぜか。不安だから。まあ興味本位で占いに走る人もいるでしょうが、あれは統計学的なもので、実際に占っているほどのことではありません。だから外れます。当たった気がしても、なんとなくその統計学に一部かすった程度。問題は占いの霊がある意味で占い師、また不安な人の心に漬け込み、神様を拒ませる。自分の気に入った占いを取り入れて。しかし、その未来を導かれる、今日も明日もあなたを支えるのは、神様。私達はどんなことであろうと、神様に聴こう。神様は答えてくださるから。

 

さて、約束の地への旅路、40年の放浪が終わりに差し掛かった時、ヨルダンのエリコをのぞむ対岸のモアブの草原に宿営しているのを見たモアブの王、バラクはイスラエルの民が列強国を打ち破り、聖絶した事に恐れ、バラムに呪ってほしい、と何とか雇い入れようとしたのですが、御使いがロバの口を通して彼が神様の御心に帰るよう導かれ、御使いとともに先に向かい、神様から離れない中に神様の恵みは増し加わっていくという事、神様の仰られること、愛は、祝福は覆すことができないということ、神様が住まわれるところにこそ善・最高の御心が広がっていくことまで語られてきました。

 

第3の託宣まで聴いてなお、バラクは諦めません。神様がここまで語られてきたのは、1つはイスラエルを守ること、もう一つはバラムに神様の素晴らしさを知らせること(次の章で問題行動を起こすのですが)、もう一つは私はこの箇所を読みながら、ああ、呪ってほしいと言っていたバラクにも語られていたんだな、と思わされます。

 

第3の託宣を聴いてなお、バラクは「私の敵をのろうためにあなたを招いたのに、かえってあなたは三度までも彼らを祝福した。今、あなたは自分のところに下がれ。私はあなたを手厚くもてなすつもりでいたが、主がもう、そのもてなしを拒まれたのだ」とバラムに言います。神様は拒まれるのではなく、彼が拒んだ。諦めなかった。それが第4の託宣に見えてくるのですが、それを見る前に、私たちは覚えておかなければなりません。

 

神様はあなたを救うためにありとあらゆる事をなされた。イエス様の命さえ私達の身代わりにされたのです。問題はその神様の愛を拒んで疑うのか、従うのか、なのです。その中にこれまでの託宣で見てきたように、神様の善・御心が溢れるのです。自分の納得がいくことが来るまで神様を信じないのではなく、あなたを愛する神様の善・御業に信頼し、従うものでありたいものです。

 

話は最後の第4の託宣に進めて、拒んだバラクについに大きな判決が出ます。ちなみに手を打ち鳴らした、というのはブチ切れた、事を表すそうで、それによって、話している事を聞こえなくさせる、打ち消す意味を持っているそうです。

 

そして神様はバラムを通して彼らの未来について、「『ベオルの子バラムの告げたことば。目のひらけた者の告げたことば。神の御告げを聞く者、いと高き方の知識を知る者、全能者の幻を見る者、ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の告げたことば。私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。その敵、エドムは所有地となり、セイルも所有地となる。イスラエルは力ある働きをする。ヤコブから出る者が治め、残った者たちを町から消し去る。…アマレクは国々の中で首位のもの。しかしその終わりは滅びに至る。…あなた(ケニ人)の住みかは堅固であり、あなたの巣は岩間の中に置かれている。しかし、カインは滅ぼし尽くされ、ついにはアシュルがあなたをとりこにする。…ああ、神が定められたなら、だれが生きのびることができよう。船がキティムの岸から来て、アシュルを悩まし、エベルを悩ます。しかし、これもまた滅びに至る」と語ります。

 

神様は第3の託宣で彼の目を開かれ、善・御心を見せられることを見ましたが、それが具体的になります。それはメシヤ・救い主イエス様の誕生の預言になります。ちなみに一つの星、という印を見つけた東方の賢者たちはイエス様の誕生を知り、イエス様のところに向かいました。長旅を覚悟の上で。確信を持って。そして救い主に本来会うことができないはずが、出会う最高の幸せを得たのです。神様を拒むか否か、自分たちの常識に生きるか否か。それによって彼らの人生は変えられたのです。

 

ちなみにバラクはモアブの王ですが、モアブは実際にアッシリヤ、バビロン、そしてギリシヤなどの進出によって時代に飲み込まれ、亡き民となります。イスラエルの親戚部族、祝福を受けるはずが。エドムもそうです。やはり親戚部族であるはずなのに、神様の祝福をないがしろにし、イエス様誕生の時に殺そうとしたヘロデ大王もエドム族です。そしてイエス様を拒み、やがて彼の一族も飲み込まれていきます。アマレク、これは昨日見たように、アガグ、これもどんなに強く誇り、神様などいらないと拒んでも結局その堅固さは壊される。カイン(アダムの子の方ではなく、アブラハムの子孫ケイン)はアッシリヤによって捕囚されていき、キティムは西側の列強国によって打ち負かされます。でも結局の所、バビロンはペルシャに、ペルシャはギリシャに、ギリシャはローマに、そしてローマも最後はキリスト教化され、敗北を見ることとなるのです。歴史を見ればそうですよね。

 

なぜそこまで語られたのか。後の時代のことまで。そうならないように、神様に立ち返る、神様を拒むのではなく、第3の託宣にあったように、神様を受け入れる中で神様の善がなることを願って語られたのではないでしょうか。私達が滅びることなく永遠の命を持つため、御子イエス様が十字架にかかられ死なれ、よみがえられたことによって、このイエス様を受け入れるすべての人を神様の家族として受け入れられ、その特権が与えられるように。

 

イエス様は十字架に置いて全てを完了させられた。あなたにも同じ復活の命を、墓を開かれ与えてくださる。私達は自分の思いの中・墓に閉じこもるのではなく、神様を拒むのではなく、まずはじめに愛された神様の、イエス様の伸ばされた御手を取らせていただき、新しくされる命の道を歩ませていただこう。主が共に世の終わりまでおられるから。