ーそれでも愛をー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主はモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えて住ませる地にあなたがたが入り、特別な誓願を果たすために、または進んでささげるささげ物として、あるいは例祭のときに、主へのなだめのかおりをささげるために、牛か羊の群れから全焼のいけにえでも、ほかのいけにえでも、火によるささげ物を主にささげるときは、そのささげ物をささげる者は、穀物のささげ物として、油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパを主にささげなければならない。また全焼のいけにえ、またはほかのいけにえに添えて、子羊一頭のための注ぎのささげ物としては四分の一ヒンのぶどう酒をささげなければならない。雄羊の場合には、穀物のささげ物として、油三分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の二エパをささげ、さらに、注ぎのささげ物としてぶどう酒三分の一ヒンを主へのなだめのかおりとして、ささげなければならない。また、あなたが特別な誓願を果たすため、あるいは、和解のいけにえとして、若い牛を全焼のいけにえ、または、ほかのいけにえとして主にささげるときは、その若い牛に添えて、油二分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の三エパの穀物のささげ物をささげ、また注ぎのささげ物としてぶどう酒二分の一ヒンをささげなければならない。これは主へのなだめのかおりの、火によるささげ物である。牛一頭、あるいは雄羊一頭、あるいはどんな羊、やぎについても、このようにしなければならない。あなたがたがささげる数に応じ、その数にしたがって一頭ごとにこのようにしなければならない。すべてこの国に生まれた者が、主へのなだめのかおりの、火によるささげ物をささげるには、このようにこれらのことを行なわなければならない。また、あなたがたのところにいる在留異国人、あるいはあなたがたのうちに代々住んでいる者が、主へのなだめのかおりの、火によるささげ物をささげる場合には、あなたがたがするようにその者もしなければならない。一つの集会として、定めはあなたがたにも、在留異国人にも、同一であり、代々にわたる永遠の定めである。主の前には、あなたがたも在留異国人も同じである。あなたがたにも、あなたがたのところにいる在留異国人にも、同一のおしえ、同一のさばきでなければならない。』主はまたモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたを導いて行く地にあなたがたが入り、その地のパンを食べるとき、あなたがたは主に奉納物を供えなければならない。初物の麦粉で作った輪型のパンを奉納物として供え、打ち場からの奉納物として供えなければならない。初物の麦粉のうちから、あなたがたは代々にわたり、主に奉納物を供えなければならない。…』」

民数記15章1−21節

 

一度壊れた関係というのは簡単には修復できない、それでもその時、どう生きるか、それはとても重要な事です。覆水盆に返らず、とは言いますが、本当にそうなのでしょうか。仲直り、和解したいという思いがあればそれは変わってくる、修復されていくのではないか、と思います。神様は私たちが弱いことを知っている、だからこそ、この弱さのうちに完全に働いて下さる。私たちはこれをどう受け止めるでしょうか。

 

さて、↑は、約束の地を神様が与えてくださる、と宣言してくださったにもかかわらず、疑い、偵察に行って気に入ったら行きます、と言った挙げ句、12人の内10人が40日間、神様の恵みを味わい、守られ、巨人たちからも無事に無傷で帰ってきたにもかかわらず、悪い噂を立て、神様が彼らが言うように、じゃあ来た道を引き返していくよう言ったら今度はまた不平不満。もうどうにもならず、結局20才以上で登録されている人(ヨシュアとカレブを除き)はイスラエルの民と40年荒野を彷徨い、挙げ句、約束の地に入れない、という宣告を神様にされた、その続きになります。

 

ただ、神様はいきなり民を滅ぼすことはできたのにされなかった。理由は明確には書いていませんが、これから様々な試練に会う中で選択を迫られていく。その結果として滅びていく事になっていきます。神様は荒野に戻された後、↑でもう一度神様の愛を示されたのです。実質的には約束の地に入っていく第2世代(登録されていない、20才以下の人たち)に向けたものですが、それでも神様の愛をもう一度確認する、それがこの先起こる試練の中にあって神様に立ち返る、神様に信頼する、頼る、まさにその機会が第1世代に示されたのではないでしょうか。

 

第2世代、荒野で生まれた子もいるでしょう。そう、神様は彼らを見捨てていなかったのです。約束を神様は帰ることなく、第2世代が約束の地に40年後に入る時、収穫ができない、とかそんなことはないのです。実際約束の地に入ってからも多くの戦いがありますし、実は一度敗走することになります。そんな時、もう一度神様に立ち返る、その事が必要になる、そのために神様は見捨てていないことを、ここで語られるのです。

 

神様は支配したいからとか、お金を巻き上げたいから語るのではない、神様はあなたのうちに命を、恵みを注がれたいのです。神様は、「わたしがあなたがたに与えて住ませる地にあなたがたが入」ることを、この時点で、荒野をさまよい始めるこの時点でもう約束されている。これを信じるかどうか、それが問われる。私たちだってそうですよ?様々な試練にあった時に、それでも神様が一緒に脱出させてくださる。逃げる、ではなく、一緒に神様がその先に御心を、恵みを見せてくださるのです。

 

神様は、「特別な誓願を果たすために、または進んでささげるささげ物として、あるいは例祭のときに、主へのなだめのかおりをささげるために、牛か羊の群れから全焼のいけにえでも、ほかのいけにえでも、火によるささげ物を主にささげるときは、そのささげ物をささげる者は、穀物のささげ物として、油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパを主にささげなければならない。また全焼のいけにえ、またはほかのいけにえに添えて、子羊一頭のための注ぎのささげ物としては四分の一ヒンのぶどう酒をささげなければならない。雄羊の場合には、穀物のささげ物として、油三分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の二エパをささげ、さらに、注ぎのささげ物としてぶどう酒三分の一ヒンを主へのなだめのかおりとして、ささげなければならない。また、あなたが特別な誓願を果たすため、あるいは、和解のいけにえとして、若い牛を全焼のいけにえ、または、ほかのいけにえとして主にささげるときは、その若い牛に添えて、油二分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の三エパの穀物のささげ物をささげ、また注ぎのささげ物としてぶどう酒二分の一ヒンをささげなければならない。これは主へのなだめのかおりの、火によるささげ物である。牛一頭、あるいは雄羊一頭、あるいはどんな羊、やぎについても、このようにしなければならない。あなたがたがささげる数に応じ、その数にしたがって一頭ごとにこのようにしなければならない」と語られますね。

 

細かい意味はこれまで見てきたとおりです。それは第2世代になっても変わりません。が、ここで注目したいのは、約束の地に入ったらもう荒れ果てていた、時代が変わったから、収穫できないということは決してないのです。上等な生贄、すべての生贄に添えられる小麦粉、それに最高の油が混ぜられる。その先のパンも同様ですね。

 

神様は在留異国人であろうと、神様を求める人に豊かな恵みを注がれる。同じなんだ。神様は神様を求める人を喜んで迎え入れて下さる。時に人の目には試練の時があるかもしれませんが、それでも荒野の40年、共に神様は進まれ、養われ、その先にあってもなお恵みを注がれるように、神様は私達を見捨てないため、御子イエス様を人として生まれさせて下さリ、私たちの悲しみ、苦しみ、何よりも罪を取り除くため、十字架に身代わりにかかり、死なれるためにかのクリスマスに来られたのです。そして3日目によみがえられた事によって、このイエス様の御前に立ち返る全ての人を神様の子として迎え入れられ、その恵みがあなたの内に溢れ流れる、働かれる、神様の豊かな恵み、人の手にはなしえない大いなる御心を表してくださるのです。

 

私たちは神様を疑う必要はない、神様が初めにあなたへの愛を、御子イエス様の命をもってまで示されたのだから。そこまでされてまで愛し、与えられる栄光に富んだ望み、力、その源なる神様から離れる事なく、生かされ、歩み続けようではありませんか。