ーいつまで待てばいいの?ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。すると、ヨハネは、弟子の中からふたりを呼び寄せて、主のもとに送り、『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか』と言わせた。ふたりはみもとに来て言った。『バプテスマのヨハネから遣わされてまいりました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなおほかの方を待つべきでしょうか』とヨハネが申しております。』ちょうどそのころ、イエスは、多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされた。そして、答えてこう言われた。『あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。』」

ルカによる福音書7章18-23節

 

今年のサッカーワールドカップが始まっていますが、これを書いている時点で2−1で日本がドイツにリード、書き終わった頃には勝利をおさめていましたが。しかし、日本もワールド・カップに出場するまでずっとずっと辛抱、あと一歩のところまでいくけど、どうしてもダメだった。私もまだ出場したことのないときから見ていましたが(ドーハの悲劇の瞬間も)、私たちには一体いつまでこんな事が続くんだ、と思うことがたくさんあります。その時、何を頼りにしたら良いのでしょう?それは全てに勝る神様にです。神様のなさる事は時にかなって美しい。自分の目でどうにもならなくとも神様はご計画をいつも進行されている。だからこそ私たちは自身を神様に委ねようではありませんか。

 

さて、神の御子イエス様が人となって生まれてこられ公生涯を歩まれていたある日、時の支配者(ローマ帝国から委託されていると言うとわかりやすいかな)ヘロデに捕らえられていたヨハネは、自分はろうに捕らえられ身動きがとれないので、彼の弟子たちに「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか」と聴いてくるように言うのでした。

 

バプテスマのヨハネ、彼はイエス様とも出会っている、イエス様が洗礼を彼から受けたとき、神様の「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声も聞いていましたし、ヨハネを慕い多くの人が集まってきた時、彼は「あなたがたは、私をだれと思うのですか。私はその方ではありません。ご覧なさい。その方は私のあとからおいでになります。私は、その方のくつのひもを解く値うちもありません」とイエス様のことを紹介していました(まだイエス様が来られる前だったので、実際は後に現れる本物の救い主という意味で)ですから、バプテスマのヨハネ自身イエス様が救い主、という確信はこのときはあったのでしょう。

 

しかし、彼は牢に閉じ込められ、状況が見えず、不安になったのかもしれません。いつまでこのような状況(彼の不遇やローマ帝国の支配が終わらないことなど)に不安を覚え、彼の弟子たちを派遣し確認をしてもらうことにするのでした。

 

これだけわかっていて、どうして?でも、どんなに優れた人でも、やはり弱いものは弱い。でも、イエス様は後に彼ほど優れた預言者はいません、と評価されたほどです。ただ、人の評価、それが問題なのではないのです。自分の考えに会うかどうか、それがだいじなのではないのです。

 

イエス様は↑の出来事の時、イエス様は、多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされたのでした。かつての預言でそのことが今成就しているんだ、と。何を待つべきなのか?奇跡?解放?もちろんここ数日分かち合ってきたとおり、イエス様は今も執り成し、私たちを助け導いてくださっています。が、じゃあ自分の都合のいい事が起こったら信じるのか、自分の都合の良いことが起こることを待ち望むのか?そうではないですよね。

 

確かに私たちはいつまで?と思いたくなることがあるかもしれない。しかし、私たちはイエス様を見る。それを受け入れる。神様のなさることは全て時に叶って美しいのです。たとえそれが自分の都合のいい時に起こらなくとも、神様の計画はいつも現在進行系であなたのうちに成し続けているのです。ただただイエス様が「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい」と応えられたように、イエス様のなされていること、今見ていること、聴いていることを純粋に受け入れようではありませんか。イエス様のなされること以上に価値があることはないのです、まさにパブてスマのヨハネが捕まる前に告白していたように。

 

イエス様につまずかない、イエス様こそ私たちの足のともし火、道の光です。イエス様は私たちを永遠のいのちへと導かれるため、この罪に縛られた私達を解き放つため、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。そして3日目によみがえられたことによって、イエス様の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、永遠の命を与える、いやもう始まっているのです、イエス様との永遠の時は。やがて人は一度は肉的には死にますが、しかし、その間もイエス様は導かれる、その後も天の御国にまでそこでもなお私たちとともにいてくださるのです。これほどまでに執り成し、愛してくださるイエス様に私たちは今日、信頼し、委ね、歩もうではありませんか。イエス様がなされる完全を信じ。