「『…あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。もし、あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行なうなら、わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結び、あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れ時は、種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかにあなたがたの地に住む。わたしはまたその地に平和を与える。あなたがたはだれにも悩まされずに寝る。わたしはまた悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの国を通り過ぎることはない。あなたがたは敵を追いかけ、彼らはあなたがたの前に剣によって倒れる。あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。わたしは、あなたがたを顧み、多くの子どもを与え、あなたがたをふやし、あなたがたとのわたしの契約を確かなものにする。あなたがたは長くたくわえられた古いものを食べ、新しいものを前にして、古いものを運び出す。わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。わたしはあなたがたを、奴隷の身分から救い出すためにエジプトの地から連れ出したあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたのくびきの横木を打ち砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。…』」
レビ記26章1-13節
某カルト団体で、祝福2世の話がありますが、そもそもそんな状態のどこが祝福何だ?と思う。上層部が「自分のために」お金を巻き上げ、支配して。しかし神様はまずあなたを愛される。イエス様も、お金を払ったら癒やされる、何て一言も言っていない。神様はあなたを祝福したい。準備万端!あなたが神様の御もとに立ち返るのを待っておられる。祝宴と共に。人ではなく、神様が無条件にイエス様の命をかけてまであなたに用意される祝福、新しい命のうちを喜びを持って生かされ歩もうではありませんか。
さて、レビ記の中でこれまで様々な話がありました。しかしそれらはあなたを支配するためではない、あなたが生きるため、あなたが本当の意味で命を得るために、その道を示されたのです。親が、ある程度子どもに自由にさせても、本当に危険なこと、だめなことについては止めるのと同じ。決してそれは子どもを憎んでのことではなく、愛しているからこそですよね。
神様がなぜここまで長々と色んな教えを語られてきたのか、その目的を神様はこのように語られます。「あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。もし、あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行なうなら…」と。
こういういいことがあるから従う、こういう悪いことがあるからお金を払う、じゃあどこかのカルト団体と変わらない。「自分のために」ではないのです。十戒の話の中でも、自分のために偶像を造らない、拝まないだろう、という話が出てきましたが、今の世の中、確かにあまり偶像的なものを作る人はいないかもしれない。でも、それは作ったら恩恵があるかもしれない、という希望的な観測で人は作る。形のあるものではなく、パワースポットに行くとか、あれをしたらいいことがある、とか。偶像というのは「アイドル」という言葉です。そうすると自分がアイドル化している何かがある、行動が見えてきますよね。
でもそうではないのです。私達の行いで神様からすごいものを買い取れると言うなら、一体どれだけの行いが必要なのでしょう。しかし、行いではない、神様が私たちを命で満たしたい、とまず提案された。あなたは偶像、「自分のために」偶像を作る「必要」がないんだよ、と仰られるのです。あれをしたら祝福する、これを捧げたら祝福する、じゃなく、神様に向き合う、神様に立ち返る中で私たちは神様の恵みが注がれるのです。
偶像や恐れを拝む、屈服している場合じゃないのです。恐れて、不安になって。親が我が子のために最善を示すように、与えるように、神様はあなたに最善を用意されているのです。互いに向き合わなければそこには何も受けることはできません。でも、神様と向き合う、その中に神様の恵みを私たちは味わうのです。神様はあなたから背を向けていない、私たちは背を向け別な恐れや不安に顔を向けていないだろうか。そしてそれを克服するために何かをしなければ、と偽神・偶像に支配されていないだろうか。聖所、あなたとのほんとうの関係の中に住まわれ、聖い、御心を現されるのです。
神様は、神様に従うなら「わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結び、あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れ時は、種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかにあなたがたの地に住む。わたしはまたその地に平和を与える。あなたがたはだれにも悩まされずに寝る。わたしはまた悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの国を通り過ぎることはない。あなたがたは敵を追いかけ、彼らはあなたがたの前に剣によって倒れる。あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。わたしは、あなたがたを顧み、多くの子どもを与え、あなたがたをふやし、あなたがたとのわたしの契約を確かなものにする。あなたがたは長くたくわえられた古いものを食べ、新しいものを前にして、古いものを運び出す。わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と仰られています。
豊かな収穫・実りを与えてくださる。敵から守る・逆に勝利させてくださり、「神様が」平和を与えてくださる。イエス様も「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからと仰られましたが、神様が平和を作り招かれる。そこにはいかばかりの祝福があるだろう?計り知れない恵み、収穫、実りが用意されているのではないでしょうか。
聖書の中に放蕩息子の話があります。父親が生きている内に財産の半分をとり、さんざん遊び呆けて、お金がなくなり飢饉がダメ押しとなり、彼は苦しむ。そして彼は父親(神様)に立ち返ろう、と決心し、父のもとに帰る途中、父は彼を遠くから探し、見つけ、抱きしめ迎え入れてくださったのです。そして「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」と良い、祝宴をはじめました。
神様はあなたが向き合うのを待っているのです。しかしそれでも背を向ける私たちに愛に気づかせるため、御子イエス様を私達の支払うべき罰、その身代わりにイエス様に罪を背負わせ十字架で死なせたのです、まず。そこに神様の愛を示されたのです。でも死で終わらず3日目によみがえらせてくださったことによって、私たちが向き直り立ち返る時、私たちも神様の家族として、神様の子として迎え入れられ、神様がイエス様のいのちにあって用意された平和、実りを味わわせていただけるのです。
私たちは今日、どこに顔、心を向けているだろうか。神様はあれしてくれない、これしてくれない、と「自分が考える利益」を欲して探し回っていますが、エデンの園にすべてを備え、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった神様が、今日あなたを本当の平和とともに、待っています。あなたは今日、どこに心を向け住まうだろうか。