「『…しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです。…』」
ルカによる福音書6章24-26節
「哀れ」などと言われたら、余計につらい。でも、哀れなままで放っておく人もまたある意味では「哀れ」だな、と思ってしまう。どうしてその哀れな状態を助けないのかな?と。イエス様は、人の目には「哀れ」な状態にあろうと、決して見捨てられず、癒やされ、罪の代価さえ惜しまず身代わりに背負われるほどにあなたを愛された。あなたはこの愛にどう応えるだろうか。
さて、↑はいわゆる12弟子を選んだ後、イエス様が語られた平地の説教の続きになります。ここまでは「幸い」についてイエス様は語られてきましたが、ここからは「哀れ」です、とかなり厳しいことを語られます。ちなみに、「哀れ」という言葉はこれでもまだだいぶ柔らかく表現されていますが、実際は「おお、わざわいだ!」と言うくらい強い言葉が使われています。↑でイエス様が語られた一つ一つに「おお、わざわいだ!」とつけられているのです。
↑に「しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです」と語られていますが、富むことはだめなのでしょうか?食べ飽きることはだめなのでしょうか。笑うことさえだめなのでしょうか。褒められることさえだめなのでしょうか。それが、わざわい、といえるほどのことなのでしょうか?
これは非常に悩ましい話で、私もこれを読みながら、どうしてだめなのかな、と思うほどでした。食前の祈りをした時に、食事を用意してくださった方にも祝福がありますように、と祈ったら、祈られちゃった、と言われたことがあります。多分↑を意識していたのでしょう。報いを失ってしまう、と。やがていただける報いを。
でもそうなのかな、食事を用意してくださったことを感謝する、それの何がだめなのか。地上で報いを受けてしまった、でも、感謝するって大事ですよね。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝しなさい、と聖書にもあるように、感謝することは間違っていません。もちろん基本は神様への感謝ですが、互いに愛し合うことを勧めるイエス様の命令とを重ねると、感謝を伝えることもまた大事ではないだろうか。
そうすると、↑をイエス様は誰に語って、何を問題にしているのかを考えなければいけません。イエス様を物色する宗教家たちも含め、イエス様は語られていた。もちろん12弟子しかり、私たち然りですが。「富む、食べ飽きる、笑う、褒められる」、この本質にあるのは、本来神様の語られている御言葉を、愛をとりなす役割のはずの宗教家たちが、かえって自分たちの都合の良いように捻じ曲げ、その権力によって、と見、それによって食べ飽きる、その立場に飽きるほど居座る、その立場に要られることを笑う、真面目な宗教行為をしている「ふり」をして人から見られるようなところでわざとして褒められることを彼らはしていたのです。それをイエス様はわざわいだ、とおっしゃっているのです。
彼らは自分たちで作り上げた富を富と思っている。しかし、本当の富は神様の内にあるのです。それを富と思わないで神様はむしろ自分たちに何もしてくれないじゃないか、とかつての彼らの父祖たちも、にせ預言者たちのように不満を持ち、神様から離れ、別ななにかに富を求めていった結果滅びていった、それが繰り返されることをイエス様は哀れ、と思われている。
でもなんで語られたの?神様に立ち返ってほしいからです。神様にある富を、恵みを食べ、喜びに満ちた笑衣の日を迎え、たとえ人からどう見られようとも、忠実に仕える中で、やがて天の御国に変える時、「よくやった、忠実なしもべよ」と褒められる、その日が来る。神様に、神様を求めよう、合われ、わざわいではなく命を得てほしい、と願うからこそ、宗教家たちを名指しにせず、群衆、そして私たちにも語られているのです。
イエス様は私たちを哀れ、わざわいな状態を放って置かれない。そのまま泣き叫べばいい、と思うなら語る必要はない。むしろ私たちが神様に立ち返る事を願い、憐れみ深いものは幸いです、と仰られたイエス様こそ私たちを憐れまれ、私達の高慢な思いや、様々なもの、何より罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日めによみがえられたことによって、このイエス様の救いを受け入れるすべての人の罪を許し、神様の子として、偽物の富から、暗闇から引き上げて、神様の家族、本物の神様の富の中に、愛の中に招かれるのです。
私たちはどちらの富を望むだろうか。たとえ目に見えなくとも、目に見えた結果、収穫がなくとも、復活のイエス様が、それこそ昨日の分かち合いでみたように、継続的に、天の御国に行くその日まで豊かに働かれ、私たちが作り上げる富でははかりしれない大いなる喜びに満たされるのです。私たちは今日、まことの神様のもとに立ち返り、イエス様と共に天の御国への道を歩ませていただこうではありませんか。天国の前味を味わわせていただきながら。
