ーすてきな関係6:モラルと欠かせない存在ー | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「『…あなたの娘を汚して、みだらなことをさせてはならない。地がみだらになり、地が破廉恥な行為で満ちることのないために。あなたがたは、わたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。もしあなたがたの国に、あなたといっしょに在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたはさばきにおいても、ものさしにおいても、はかりにおいても、分量においても、不正をしてはならない。正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した、あなたがたの神、主である。あなたがたは、わたしのすべてのおきてとすべての定めを守り、これらを行ないなさい。わたしは主である。』」

レビ記19章29-37節

 

人にはある意味で良心というものがあります。どこかでそれはやってはいけない、というストッパー的な何かが。それがなければ大変なことになってしまうから。ただそれに従うかどうかの問題なのですが。ただそれでも葛藤があるのが人の弱さ。でも神様は私たちがAかBかと思う中で思いもよらないベストな道へと導かれる。いつも語ってくださるのです。私たちは私たちの道の灯火、光なる神様のみ言葉に導かれ、歩もう。その先に見せてくださる主の栄光を待ち望み。

 

さて、↑は「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない(聖なる者とされるだろう)」から始まった、神様の語られていることの最後の部分となります。聖なるものと神様がしてくださる、導いてくださる。なんと感謝なことでしょう。↑を見ても、これまで見てきた19章の中身もかなり詳細に書かれています。それは人が定めたものではなく、あなたが生きたものとなってほしい、という願いがあるからこそ語られているのです。

 

まず神様はモーセを通して「あなたの娘を汚して、みだらなことをさせてはならない。地がみだらになり、地が破廉恥な行為で満ちることのないために。あなたがたは、わたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である」と語っていますね。まず常識として、今の時代、自分の子供を汚す、みだらなことへ導く、ということは普通は考えない。そんなことがまかり通ったら世の中どうなるでしょう。子供も、当然、そんな事をさせられたら親への不信感から、世は当然乱れていくのは自明なことです。

 

ただ、別にいいのでは?ということに対して、側面を変えて考えたいのですが、当時訴えていたこの時代は、異国の宗教で、豊穣を願って淫行を伴う行為を矯正させられていたり、親に売られる、なんてこともあった、そんな神様を恐れず、結局神様よりも息もしない、自分でも何もできない、偽神、というよりもただの「作り物」によって人の心が支配されていく。でも神様はそうではなく、神様の聖所、今で言うところの教会ですが、もっというと神様のつくられたこの世界が、そうした悲しみや罪に支配されるのではなく、神様の恵みに溢れさせたい、生きた私達へと導きたい、だからこそ語られているのです。

 

私たちはどうでしょうか。別にこれくらい、と思って神様を横においてなにか別なものにあなたの心を捕らえさせていないだろうか。私達は神様の恵み、いのちが満ち溢れることを祈ろう。その中に私たちは驚くべき神様の御業、ご計画を見るのです。

 

次に神様は「あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である」と語られます。霊媒や口寄せには悪例が働く、というのが一番わかりやすい理由なのですが、もう少し大事な事を私たちは見落としてはなりません。というのもこれは先程に共通するのですが、そんな物に頼る必要があるのでしょうか。真の神様があなたにベストを備え、導いてくださる。私たちが心を注ぐのは神様。神様はそのあなたに答え、溢れんばかりの恵みを注いでくださる。それは自分にとっては思っていた答えと違っても、神様は私たちが思う以上の計画を用意されているのです。

 

ちなみに老人を敬う、ということに関し、私が働いていた職場で「そんなに尊敬されたいなら、もっと尊敬されるように生きろよ、そうしたら尊敬してやるよ」なんて吐いた職員がいたのですが、あなたは彼の何を知っているのか。そして何より、神様が歳を重ねた方のうちに神様の一日一日の恵みが積み重なっているのだから、私たちはそれに見下すのではなく、むしろ助け合う(今で言う介護的要素もあるでしょうが)、また人生、信仰の先輩に話を聞き、また神様が彼らを通して成された御業から励まされる、その思いが「またあなたの神を恐れなければならない」という言葉に込められているのではないでしょうか。

 

私たちより長く生きてきた人たちが必ずしも神様のことを自分より知っているとは限りませんが、少なくともその人のうちに神様は私達の知らない歴史を重ねてきている。私たちは神様のことを知らないことだらけ。私たちは霊媒だの口寄せだの、そういうことではなく神様に心を寄せ、御心を求めるものでありたいですね。

 

さらに神様は「もしあなたがたの国に、あなたといっしょに在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、主である」と語られます。差別問題がここ10数年、特に深刻化してきていますが、私たちはどうして誇ることができりうでしょう。私たちは同じ神様につくられたものなのに。神様に愛されているものなのに。

 

むしろ彼らが真の神様を知らず、先程の死者崇拝とか、まじないに頼らざるを得ない人たちに私たちは彼らを神様のもとに導かせていただこうではありませんか。一緒に祈ろうではありませんか。そして、一緒に神様の家族として神様の恵みに生かされたいものです。呪(まじな)いに支配されるのではなく、神様の恵み、御言葉に導かれ。

 

最後に、「あなたがたはさばきにおいても、ものさしにおいても、はかりにおいても、分量においても、不正をしてはならない。正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した、あなたがたの神、主である」と神様は語られます。もちろん、モラル的に価値を人によって変えてはいけないのは言うまでもありませんが、それ以上に、私たちは神様の目で、神様の価値、御言葉に導かれよう。これ以上に正しく私達を導かれる方はいません。

 

なにせあなたを救うために私達の罪の身代りに十字架にかかられ死なれる程に私達を見捨てず、愛されたイエス様です。そして裏切った弟子たちを恨まなかったように私達を恨むのではなく、むしろ復活とともに私達を命の道に導かれるのです。神様の子として、家族として迎え入れてくださるのです。

 

私達はこうして神様の恵みに、愛に、このイエス様の救いにあって生かされる。この世には何かに頼らざるを得ない状況はたしかに山ほどあるかもしれない。しかし、だからこそ、私たちにはイエス様が欠かせないのです。命を惜しまずあなたに与えるほど愛されたイエス様を私たちは欠かすことはできません。この方があなたを生かし導いてくださる、養ってくださる、この出エジプトの旅で戦われているように、ともに世の終わりまで戦い導いてくださる。私達はこのイエス様に今日信頼し、歩ませていただこうではありませんか。