「今、軍隊の娘よ。勢ぞろいせよ。とりでが私たちに対して設けられ、彼らは、イスラエルのさばきつかさの頬を杖で打つ。ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。それゆえ、産婦が子を産む時まで、彼らはそのままにしておかれる。彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰るようになる。彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。」
ミカ書5章1-4節
小さいものほど吠える、などという言葉がありますが、問題はどこに向けるか、ということ。抵抗するとかそういうことではなく、私達は小さくてもいいのです。神様に向かって祈り求めよう。神様が弱さの内に完全に働かれるから。小さな群れよ、者よ、恐れることはない。天の父が喜んで御国を与えられるから。そこには大いなる喜びが待っている。
さて、↑は神様が預言者ミカを通して語られた預言の続き。この時代、八方美人になったり、国内では富裕層が貧困層から搾取する、公義を曲げ、あまつさえ、国内の、同じ民への愛さえしない。完全に神様から離れていた。さらにミカは、セナケリブによって滅ぼされ、ペリシテ人に任されたちにいた。本当にあの神の国の物が小さいものとなってしまっていた。希望は一体どこにあるのか。
預言者、それは神様のメッセージを語る、スポークスマンのようなものですが、彼自身が操り人形になるというわけではない。それに応じるも応じないも自由。ただ、神様が招かれるところに行くとき、彼もまた恵みを受ける。私達は様々な場所に行き、様々な立場、また関係の中にいる。でも、神様を求めることには変わりはない。神様があなたをそこにおかれたのなら、どんな小さくとも、恐れることはないのです。
さて、ここまでの章でイスラエルの罪への指摘、これからバビロン捕囚に向かっていく預言がされた。そしてミカや他の預言者を通して悔い改めたヒゼキヤの宗教改革によって、バビロン捕囚は100年ほど免れますが、結局その先の王たちの堕落によって捕囚されていった。捕囚地、苦しみ、暗闇の中にあってはとても小さな立場です。捕囚されたものですから。
しかし、神様は彼らを決して見捨てることなく、預言者を捕囚地に置かれ、神様のみ言葉語られ、また捕囚地の高官に神様によってイスラエル人が何人か置かれ、彼らは助けられた。そして約束の70年、彼らは開放される、神様の不思議な技を、ペルシャ帝国の当時の王クロスによって。その先も色々あるのですが、神様は決して小さい、こんなもの、あなたの色々を見捨てない。ただ助け手を置くだけではなく、置かれるだけではなく、救い主がどこでお生まれになられるのか、その預言が↑から始まります。そう、小さな村、ベツレヘムに誕生すると。
神様はミカを通してこのように語られます。「今、軍隊の娘よ。勢ぞろいせよ。とりでが私たちに対して設けられ、彼らは、イスラエルのさばきつかさの頬を杖で打つ。ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」と。
「軍隊の娘」、これはなんだろう。それは、神様の軍であり、神様の守られている中にある娘、それが私達ではないだろうか。私達は神様の軍、将が共におられる、その中にいる。私達はだからこそ、恐れず、将のもとに行く必要がある。恐れ隠れて、どうなりますか。
イスラエル・私達を治めるさばきつかさ、イエス様。預言では彼の頬を打つ、それは実際に迫害や鞭打ち、十字架、また実際に彼を殺そうとイエス様誕生時の支配者、ヘロデ王がイエス様を恐れ、討とうとする。私達は何を恐れるのだろう。神様はあなたを救いたい、あなたとともにある、「娘」、すなわち家族としてみてくださっている。救いたいと願っておられるのです。
神様は永遠の定め、イエス様、救い主誕生、そして罪・サタンの支配する世へ勝利する宣言をエデンの園でされた。それを一度も変えることがなかった。どんなに神様から民が離れ、逆らおうとも。だから必要なのです、救い主が。自分たちは小さい、だからなにか大きなものに頼ろうとする、でもその大きなものを間違えてはいけない。それはイエス様です。
さらに、この預言をもっと見ると、小さかろうと、どんなに弱く感じようとも神様を求める所に神様は完全に現される、その栄光を。たとえば、初代サウル王。彼は王に選ばれた時このように答えた。「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか…」と。本当に小さく、しかもベニヤ民族は王国成立前、とんでもない罪を犯し、そこから王が選ばれるなどありえない、しかし、神様は選ばれた。
また、ギデオンというちょっと気弱な、王国成立前にイスラエルのさばきつかさだった人は選ばれた時このように言いました。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです」と。最も弱い、強い中からではなく、しかも少数精鋭によって神様のみ力によって勝利を収められた。しかも受肉前(要するに人としてイエス様が生まれる前の)イエス様も彼のもとを訪れ、招かれた。
他にもダビデ王は8人兄弟の末っ子、ヤコブは祝福の基として選ばれる前、弟、長子ではなかったのに、選ばれた。ベニヤミン、そこからサウル王だけではなく、パウロという1世紀に活躍した伝道者も出てきた。確かに救い主の誕生は小さな小さな部族から生まれ出る、が、ある特定のときだけではない、小さな者のうちにいつも不変、変わることなくその愛を現されていたのです。
救い主誕生の預言とともに「それゆえ、産婦が子を産む時まで、彼らはそのままにしておかれる。彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰るようになる。彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ」とも神様は語られますね。たしかにイエス様の誕生はこのときよりずっと先です。が、その不変なるイエス様誕生に向けて神様の愛は現在進行系で動かれている、私達を養い、安らかに住まわせていただける。その御力は地の果てまで及ぶほどに。私達がこれは無理だろう、というなか、小さくなるような中にあっても神様は完全に現されるのです。
イエス様はこのように仰られました。「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」と。そのために、神であられるのに人となって生まれてきてくださった。小さなものの内、貧しい大工の家に。王であられるのに王宮ではなく、石のベビーベッドの上に寝かされ。しかし、そのイエス様の招きに応え立ち返る人たちのうちにイエス様はいつも栄光を現されていた。最後は、私達の罪を身代わりに背負われ十字架に架かられ、死なれたのです。しかし、3日めによみがえられたことによって、私達は小さな、もうどうしようもない立場のはずが、罪赦され、神様の子とされる、この十字架のまえに悔い改めるなら。
このイエス様が、あなたのうちに住まわれ、御国を広げるために来られた。命をかけて。あなたは何を恐れることがありますか。隠れたり、無理と諦める必要もない。私達には無理でも神様、天の父が喜んであなたに御国を与えられる、あなたのいる場所は地の果てにまで及ぶ大いなるイエス様のみ力によって広げられ、その栄光に満ち溢れるから。私達は今日、イエス様に帰ろう。そしてこの小さなものを大きくしてくださる神様に委ね、歩もう。イエス様の勝利を信じ。
