「ダビデによる:ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方。主よ。人とは何者なのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。主よ。あなたの天を押し曲げて降りて来てください。山々に触れて、煙を出させてください。いなずまを放って、彼らを散らし、あなたの矢を放って、彼らをかき乱してください。いと高き所からあなたの御手を伸べ、大水から、また外国人の手から、私を解き放し、救い出してください。彼らの口はうそを言い、その右の手は偽りの右の手です。神よ。あなたに、私は新しい歌を歌い、十弦の琴をもってあなたに、ほめ歌を歌います。神は王たちに救いを与え、神のしもべダビデを、悪の剣から解き放されます。私を、外国人の手から解き放し、救い出してください。彼らの口はうそを言い、その右の手は偽りの右の手です。私たちの息子らが、若いときに、よく育った若木のようになりますように。私たちの娘らが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた隅の柱のようになりますように。私たちの倉は満ち、あらゆる産物を備えますように。私たちの羊の群れは、私たちの野原で、幾千幾万となりますように。私たちの牛が子牛を産み、死ぬこともなく、出て行くこともなく、また、哀れな叫び声が私たちの町にありませんように。幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。」
詩篇144篇1−15節
本屋などをあるきまわっていると様々な本に出会う。その中でも多くのエッセイや詩集などが目につく。彼らの心の叫び。でも叫んですっきりは一時的にしても、それは解決にならない。私達はカミサ魔の作られたこの体を自分で崩すのではない、神様が日々新しく整えてくださる。私達はそうして喜びの声、新しい歌を歌わせていただける日を迎えるのです。私たちは何者なのか?神様に作られたものであること、御子イエス様の命という代価を払われてでも愛されたものであることをもう一度思い出し、また心に抱き、この方とともに歩ませていただこう。
さて、↑は表記の通り、ダビデ、古代イスラエル王国2代目の王のダビデが歌い残した詩。神様の素晴らしさを褒め称えている歌。彼には多くの戦いがあった。多くの血を流した、とも評されるほどに大変な日々だった。ときには異国の巨人と戦ったり、王になる前は先代の王に妬まれ国を追われたり、息子にクーデターを起こされ再び国を追われたり。
話はそれるのですが、今日というか、昨夜の夜、不思議な夢を見ていた。ある教会での礼拝で、賛美構成を話しあっていた時、私は比較的、賛美歌・聖歌も好きで、ワーシップソングと呼ばれるような曲と織り交ぜる傾向があるのですが、夢に登場した教会員さんが、賛美とは、古来より賛美歌・聖歌などであるべきであって、最近の曲は邪道だ!と言い放たれてしまったのです。そこで、でも神様は、新しい歌を歌え、と聖書で教えているでしょう?新しい歌の本質を忘れていませんか?と話し始めたところで目が覚めたのですが、そこで↑の御言葉を思い出したのです。
この夢の正解は正直ありません。邪道、というのは別ですが、賛美というのは神様への喜びの声であり、告白であり、祈りなのです。賛美歌や聖歌が古いとか、新しい歌のほうが若い人に受け入れられる、とか、そういう話ではなく、神様への賛美に新しいも古いもない。
ただ、一方で私たちは古いままでいていい、という意味ではない。私は私なんだから、そのままでいいんだ、ありのままでいいんだ、これが私なんだから、と自分の主権を自分で握りしめてはいけない。神様が導かれるから。また、こんな時に神様神様言っていられない、と神様への祈り、信仰告白、賛美の歌をやめてはいけない。いつも神様に私たちは信頼しよう。
様々な苦労に追われていたダビデはこの詩をこのように歌い始める。「ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方」と。
「我が岩、私達を支え守られる。…私の恵み、私の砦。わたしのやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所」この辺りは有名、書いてあるとおりです。ただ、この詩を読みながらふと気付かされたのは、神様があとはやってくれるから自分たちは好き勝手に生きていい、ありのまま生きていればいいんだ、と思いがちなのですが、そうではないんです。「主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる」のです。
神様は、戦の中にあっても私達を強めてくださる、鍛えてくださる。私たちが手を挙げるべき、助け求めるべき相手を、祈るべき相手を忘れてはいけない。神様に祈ることを。神様を求めることを。神様により頼むことを。神様は守られる。だからこそ、私達は神様を求めるのです。神様が勝手にやってくれるから自分たちは好き勝手にしていていいわけではない。どんな状況下にあっても神様があなたを強めたい。あなたのうちに見心を、御力を現したいのです。そうして私たちは鍛えられるのです。私達は神様を求める、その中にあって「神様が」働かれるのです。
ダビデは更に続けます。「主よ。人とは何者なのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです」と。あなたは自分は何者だと思いますか?私たちは神様によって作られた存在なのです。大切に、最高傑作として創られた。その神様の思いを自分はこうしたい、と崩してどうしますか。本来はあっという間に消し飛んでしまうようなもの。厳しい状況になれば、それまでは神様神様、と言っていたのに時には恨みつらみをいう。しかし、神様はその息、息吹によって生かされるのです。
私たちはだからこそ、ダビデが歌うように、「主よ。あなたの天を押し曲げて降りて来てください。山々に触れて、煙を出させてください。いなずまを放って、彼らを散らし、あなたの矢を放って、彼らをかき乱してください。いと高き所からあなたの御手を伸べ、大水から、また外国人の手から、私を解き放し、救い出してください。彼らの口はうそを言い、その右の手は偽りの右の手です」と神様をどんな状況にあろうとも求めよう、恥も外聞もへったくれもない。神様は喜んで応えて下さる。救い出してくださるから。神様が、「神よ。あなたに、私は新しい歌を歌い、十弦の琴をもってあなたに、ほめ歌を歌います」と告白できるように、その天を押し曲げ、押し広げ、あなたの状況の中にあっても御力を、御心を現し、状況を新しくしてくださる。
すぐではないかもしれない。しかし神様がともにおられることは大きい。やぐらとなり、盾となり、私達の避け所となってくださる。だからこそ私たちは神様のもとに立ち返ろう。古い、自分、どうしようもないこの私を作り変えてください、と祈ろう。神様は神様を己の神と告白するものに幸いを与えてくださる。神様に立ち返り、新しいいのちの内を歩ませていただこう。
神様は、私達の罪の身代わりに御子イエス様を十字架にかけ、死なせるほどにあなたを愛されている。しかし、そんな神神いってどうする?などと言わず、私たちはすべてを新しくしてくださる神様を求めよう。悔い改め立ち返ろう。3日目によみがえられたイエス様が、悔い改め立ち返る全ての人のうちに住まわれ、同じ復活の恵み、新しいあなたへと作り変えてくださる。あなたの内に御力を、御心をあらわれる。もう古い自分に立ち返るのではなく、日々日々、もう神様は言い、ではなくいつでも神様を求め、神様のくださる新しい日々を歩ませていただこうではありませんか。