「あなたのしもべを豊かにあしらい、私を生かし、私があなたのことばを守るようにしてください。私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。あなたは、あなたの仰せから迷い出る高ぶる者、のろわるべき者をお叱りになります。どうか、私から、そしりとさげすみとを取り去ってください。私はあなたのさとしを守っているからです。たとい君主たちが座して、私に敵対して語り合ってもあなたのしもべはあなたのおきてに思いを潜めます。まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。」
詩篇119篇17−24節
旅、生きたいですよね。某ウィルスでも落ち着いたら。私もこれが流行る前は旅は好きでした。でも今の状況もそうですが、良き相談者、ガイドが必要です、旅には。安全に、楽しく。私たちはこの地上にあっては旅人。様々な苦難困難もある、だからこそ、私たちは最高の相談者、ガイドたるイエス様に導かれ、委ね、歩もうではありませんか。命の道を。このイエス様はあなたのために命さえ惜しまなかった方。この方から離れず、目を離さず歩もう。
ということで、↑はそのいわゆるいろは歌のヘブル語版第3段。この詩はエズラという紀元前に生きていた歴史家、神様の愛を伝える人が書き残したものです。彼はバビロン捕囚の中という苦難の中に生きていました。何度も悲しみを覚えていました。神様はどうしてこんな目にと思う中にあった。それでも神様こそ私達を幸いなものにしてくださる、その確信に立った。それは時が経っても変わらない、バビロン捕囚から解放された、赦されたからもう言い、ではなくだからこそ、この方と共に歩もう、とこの詩を残しました。
今日は3文字目のג(ギメル)、テーマは慰めになります。何日か前に、私たちには神様の慰めが必要であるということを見ました。神様がいるならどうしてこんなことになるんだ、と。私たちは一人ではある意味で生きていくことは出来ない。神様も最初の人、アダムを創造されたときに、「人がひとりでいるのはよくない」と、彼にふさわしい助け手、エヴァを彼の脇腹の骨から作られ、彼に与えました。しかし彼らだって完璧ではないから、罪を犯した。神様が必要なんです。神様が、私たちを導かれるのです。
ガイドは旅を一緒に進まれます。それはそうですよね。だからガイドなんですから。でも、本当のガイドは更に一歩踏み込んで、迷子になった人を探しに行きます。私たちはガイドから目を離しては、迷いでてしまいます。ガイドはその道をよく知っています。私たちを安全に導きます。しかし真のガイドたるイエス様は、金で雇われ案内する、導くのではない、神の御子なのにも関わらず、人となってまで生まれてきて、同じ人間として導かれていったのです。罪、迫害、多くの苦難のある紀元1世紀の中にあって、どんなに裏切られ、罵られようとも、もうこんな奴らなんか知らない、と言って見捨てて天に帰る、ということをしませんでした。
イエス様の例え話の中で失われた1匹の羊の例え話は印象的です。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」と仰りましたね。
悔い改める必要のない人なんていない。迷子になった羊も同じ。でもイエス様は失われたその1匹を、勝手にしろ、とは言わず、危険を犯してでも探しに行き、見つかって叱るのではなく、大喜びで担いで帰り、友たちにこの喜びをともに味わってほしい、とまで言われた。私は99匹の側だ、なんてとても言えない。いつその1匹になってもおかしくはない。だから私たちは神様から目を離してはいけない、神様は私たちの最大の導き手。苦しいときにそばに立って慰める。命をとしてでもあなたを救いに、探しに来られる、そして、あるべき道に導かれるのです。神様の養いの中に。
エズラはג(ギメル)の段で、「あなたのしもべを豊かにあしらい、私を生かし、私があなたのことばを守るようにしてください。私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。私は地では旅人です」と始めます。私たちがどんなにこっちのほうが良い、とか言っても、本当に正しい道などわからない。しかし、神様が私たちの目を開かれる時、そこがどんなに狭く、そんな神様なんか信じて何になる?と思う中にあっても神様は、その薬師意味わざを私たちに見せてくださるのです。豊かにされ生かしてくださる。
あなたのことばを守る、神様の御教えは、御言葉は私たちを生かす、一つ一つの言葉にあって生かされるということをこれまでも見てきましたが、究極的には神様の愛です。この神様の愛が私たちを生かしてくださる。豊かにしてくださる。くすしい御業を、その愛ゆえにあなたのうちに現したい、だから私たちもこの愛のうちにとどまらせてください、助けてください、どんな事があってもあなたから離れないよう、守ってください、と素直に祈りたいものですね。
祈りは素直でいいんです。神様は冷たくではなく、優しくあなたを導かれ、語られるから、私達はこの方の言葉に耳をしっかりと傾け、その神様が導かれる先に必ずくすしい栄光の業、私達では考えられない何かを見せてくださる、そう信じたいものです。
エズラは「あなたの仰せを私に隠さないでください。私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています」とさらに歌いますが、砕かれています?ひどい?違う、そこから新しく整えてくださる。神様の命が、息吹が吹き込まれ、生きたものとなる。よくありのままでいい、というけどもったいない。私たちはこの神様の息吹を受ける時、本当に生きたものとなる。
世の中エズラが歌うように様々な苦難があります。しかし、「あなたは、あなたの仰せから迷い出る高ぶる者、のろわるべき者をお叱りになります」。だから私たちはこの神様をしたおう。私たちの目には何をどうしたら良いのかわからない。むしろ神様、なぜ、と神様をそしることさえある。でも、私たちは神様の慰め、導きを求めているだろうか、ここに命があると確信しているだろうか。
エズラが言うように神様は「まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手」となってくださるのです。イエス様は、罪人だからと冷たくあしらうのではなく、優しく最後まで愛を実行された。私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ死なれた。しかし3日目によみがえられたことによって、私たちの罪を許し、神様の義の道、命の道へと引き上げてくださるのです。イエス様の十字架の前に罪を悔い改め立ち返るなら。
ここに命がある、慰めがある、喜びがある。それは地上においては私たちは旅人ですので、この世の様々な問題に直面する。しかし私たちを復活のイエス様があなたの手を引き、慰め、喜びの、栄光の道へと導かれる。
私達はイエス様から目を離さず、どんな中にあってもついていこう。悩むなら相談したっていい。神様は聞いてくださる。そして、優しく手を差し伸べ導かれる。このイエス様の導く先には神様のくすしいみわざを見、体験する、神様の愛が、命が溢れ流れ、そこは神様の国となる。私たちがもうどうにもならない、と思う中に神様の命が、御心が現される。私たちはこの天に向かう旅において、世の終わりまで共におられるイエス様と喜びを持って、歩もうではありませんか。