私たちには様々な苦難苦しみ、悲しみがある。
これを一体何が慰めるのか。
なにか忘れるために趣味に走る?
そうではなく、「何が」ではなく「誰が」なのです。
ものや何かの現象、行動は一時的でしかないし、あなたを保証しない。しかし、神様は御子イエス様の命を与える保度にあなたを愛された、この方があなたを心配してくださる。慰めて下さる、命へと導かれる。
弱さは恥ではない。神様に委ねることは恥ではない。
神様が御子イエス様の命をあなたに差し出してまでも心配し、慰め、その先へと導かれる。私たちはこの神様が心配して下さるその喜びに生きよう。これは慰めで終わらず、命へと続く。
チャールズ・ハッドン・スポルジョン氏はこう語る。
私たちの悲しみの慰めとなるものは、『神が心配してくださる』ということである。友よ。いつも心配そうな顔をしてあなたの信仰を辱しめてはならない。あなたの重荷を主にゆだねなさい。
