形だけとりあえず真似る、言う、行動する…
でもその本質を捉えなければ、意味がない。
祈り、これは決して宗教行事でもなんでもない、神様と私たちをつなぐ、そして神様が聞いてくださるゆえ、祈り事を許された最高の贈り物なのです。
その中でイエス様は主の祈りというものを教えられました。
カウマン夫人著の「荒野の泉Ⅱ」では、この主の祈りについて大事なことを下のように記しています。形ではなく、本当の心からの祈りを捧げたいですね。
「天にまします」とは言えません。
私が地上のことだけに気をとられて、天に宝を積んでいなくては。
「我らの」とは言えません。
水も漏らさないような霊の密室に閉じこもっていたのでは。
「父よ」とは言えません。
日常の生活の中で親子のようなつながりを持っていなくては。
「み名をあがめさせたまえ」とは言えません。
力を尽くしてそのために労していなければ。
「天になるごとく地にも」とは言えません。
奉仕のために自分を献げる備えができていなければ。
「み心をなさせたまえ」とは言えません。
み心を疑ったり、反発したり、従わずにいるのでは。
「我らの日曜の糧を今日も与えたまえ」とは言えません。
過去の経験によって生きていたり、いい加減な生き方をしていては。
「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」とは言えません。誰かを恨んでいるのでは。
「我らを試みにあわせず」とは言えません。
自分から試みの中に入って行こうとしているのでは。
「悪より救いだしたまえ」とは言えません。
祈りによって霊の世界の戦いに参加する備えができていなくては。
「国は汝のものなればなり」とは言えません。
忠実な民として「王」と同じ心を持っていなくては。
「力は汝のものなればなり」とは言えません。
人の行動を心配したり、隣り人がどのように考えるかを恐れているのでは。
「栄えは汝のものなればなり」とは言えません。
人々の称賛を自分が求めているのでは。
「限りなく」とは言えません。
もし私が時の流れの中だけに、目を向けているのでは。
