形だけではなく… | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

形だけとりあえず真似る、言う、行動する…

でもその本質を捉えなければ、意味がない。

 

祈り、これは決して宗教行事でもなんでもない、神様と私たちをつなぐ、そして神様が聞いてくださるゆえ、祈り事を許された最高の贈り物なのです。

 

その中でイエス様は主の祈りというものを教えられました。

 

カウマン夫人著の「荒野の泉Ⅱ」では、この主の祈りについて大事なことを下のように記しています。形ではなく、本当の心からの祈りを捧げたいですね。

 

「天にまします」とは言えません。

私が地上のことだけに気をとられて、天に宝を積んでいなくては。

 

「我らの」とは言えません。

水も漏らさないような霊の密室に閉じこもっていたのでは。

 

「父よ」とは言えません。

日常の生活の中で親子のようなつながりを持っていなくては。

 

「み名をあがめさせたまえ」とは言えません。

力を尽くしてそのために労していなければ。

 

「天になるごとく地にも」とは言えません。

奉仕のために自分を献げる備えができていなければ。

 

「み心をなさせたまえ」とは言えません。

み心を疑ったり、反発したり、従わずにいるのでは。

 

「我らの日曜の糧を今日も与えたまえ」とは言えません。

過去の経験によって生きていたり、いい加減な生き方をしていては。

 

「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」とは言えません。誰かを恨んでいるのでは。

 

「我らを試みにあわせず」とは言えません。

自分から試みの中に入って行こうとしているのでは。

 

「悪より救いだしたまえ」とは言えません。

祈りによって霊の世界の戦いに参加する備えができていなくては。

 

「国は汝のものなればなり」とは言えません。

忠実な民として「王」と同じ心を持っていなくては。

 

「力は汝のものなればなり」とは言えません。

人の行動を心配したり、隣り人がどのように考えるかを恐れているのでは。

 

「栄えは汝のものなればなり」とは言えません。

人々の称賛を自分が求めているのでは。

 

「限りなく」とは言えません。

もし私が時の流れの中だけに、目を向けているのでは。