ー道を整えるー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。【主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。】』そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」

マルコによる福音書1章1−4節

 

私たちはそれぞれ目的を持って造られました。それぞれに神様は賜物を与えておられ、あなたらしい姿を考え、導かれる。私たちは神様から与えられたこの命を喜び歩もうではありませんか。神様につながる命の道の上を。

 

さて、↑は12弟子の1人、ペテロがイエス様と出会い、歩み、それを御霊に導かれて語った、それをマルコという人が代筆したもの。彼は福音書をイエス様の誕生よりも前の、大事な預言の成就から書き始めます。それは、イエス様が公生涯を歩まれる前に、その道を整える、その準備をするバプテスマのヨハネの誕生の預言です。ちなみに彼は高齢の夫妻の間に与えられたのですが、本当に驚くべき形となります。

 

彼はいわゆるバプテスマ(彼の場合は悔い改めのため。罪の許し、というわけではない)を授けていたのですが、それは彼が有名になるためではない、この機会を通してもう一度神様に立ち返ることを目的としていた。そう、彼の役割はバプテスマを授けること、でもその備える道は神様へと続いていく。そして神様は確かに約束を果たされた、どんなに時間か、時代が変わろうとも。その神様にたしかにつながっていた。そしてイエス様が来られた後は、自らは引いていきながら、イエス様についていくようにとも導いていった。そのままバプテスマのヨハネのもとに残っていた人たちもいましたが。

 

私達ができることなどたかが知れている。こんな時代、こんな小さな私に何ができるだろう、と思う。しかし、彼には彼の役割を神様が与えたようにあなたにはあなたへの役割を神様は与えてくださる。そして神様があなたのうちに働かれ、その道は造られる。↑の話はバプテスマのヨハネだから意味がある話ではない。彼は、神様から与えられた役割、「そのとおりに」従った。その中に神様の御力が豊かに働いていったのです。

 

私たちのこの時代、どうしたら良いのかわからないことはたくさんある。しかし、神様の希望、その灯火を隠し、また消してはいけない。あなたが諦めてはいけない。あなたが主に仕えるように、あなたの遣わされた場所で使える、主のみ心を求める中に神様に繋がる道は造られていく。

 

イエス様はもうすでに初臨(最初に人となって生まれてこられたこと)され、十字架の贖いのわざを完成され、天に昇られた。私たちはこのイエス様が来られるための備え、それはできない。しかし、この十字架にある救い、この素晴らしい恵み、愛を叫ぶことはできる、伝えることはできる、なにかできることがある。イエス様がやがて再臨され、終わりの時が来る前に。その人の最後の日が来る前に。いや、生死云々以上に、今あなたがそこにいるのはいつまでかはわからない。しかし神様は目的を持ってあなたをそこに置かれている。なら、私たちはこの神様のみこころという道、命に至る道が敷かれることを切に願おうではありませんか。

 

私たちは恐れる必要はない。神様があなたのうちに働かれ、すべきこと、語るべきことを教えてくださる。あなたを通して神様ご自身がその御力を現される。だから私たちはこの神様に信頼し、委ねよう。天国云々を超えて、今、あなたのいる場所に御国が来ますように、と祈ろうではありませんか。