「わたしは彼のおしゃべりと、雄弁と、美辞麗句に黙っていることはできない。だれがその外套をはぎ取ることができるか。だれがその胸当ての折り目の間に、入れるか。だれがその顔の戸をあけることができるか。その歯の回りは恐ろしい。その背は並んだ盾、封印したように堅く閉じている。一つ一つぴったりついて、風もその間を通らない。互いにくっつき合い、堅くついて離せない。そのくしゃみはいなずまを放ち、その目は暁のまぶたのようだ。その口からは、たいまつが燃え出し、火花を散らす。その鼻からは煙が出て、煮え立つかまや、燃える葦のようだ。その息は炭火をおこし、その口から炎が出る。その首には力が宿り、その前には恐れが踊る。その肉のひだはくっつき合い、その身にしっかりついて、動かない。その心臓は石のように堅く、臼の下石のように堅い。それが起き上がると、力ある者もおじけづき、ぎょっとしてとまどう。それを剣で襲っても、ききめがなく、槍も投げ槍も矢じりもききめがない。それは鉄をわらのように、青銅を腐った木のようにみなす。矢もそれを逃げさせることができず、石投げの石も、それにはわらのようになる。こん棒をもわらのようにみなし、投げ槍のうなる音をあざ笑う。その下腹は鋭い土器のかけら、それは打穀機のように泥の上に身を伸ばす。それは深みをかまのように沸き立たせ、海を香油をかき混ぜるなべのようにする。その通ったあとは輝き、深い淵は白髪のように思われる。地の上には、これと似たものはなく、恐れを知らないものとして造られた。それは、すべて高いものを見おろし、それは、すべての誇り高い獣の王である。」
ヨブ記41章12-34節
私たちが生きていると、自分たちではいかんともしがたい問題がある。私は大丈夫、と言っていた人がここ数年苦しんでいることは言うまでもない。しかし、「天の下にあるものはみな、わたしのものだ」と神様が仰られる。神様に勝るものはない。その神様にあなたは信頼するだろうか。私たちは間違っても神様に、混紡を振り上げるようなことが内容、祈りの手を主に向かってあげよう。神様はあなたをご自身の子として導かれるのだから。
さて、↑はイスラエル民族発祥の少し前に生きていたヨブという人が苦難にあった時に神様が答えている場面。ヨブは神様を心から愛し、絶えず祈り、いつも感謝していましたた。どんなに財産が奪われ、子が失われた時でさえ。ヨブは神様がいる、「私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを」知っている、この方に全て委ねようと。神様も彼ほど正しい人はいない、と称されています。
しかしサタンは、何か苦難困難でもあれば人間は、ヨブは神様を呪うに違いないと、ヨブの財産や家族、健康など奪い、ヨブに神様を呪わせようとします。神様なんて信じたって意味はない、と神様にある希望から引き離そうとしてくるのです。神様よりもこっちのほうが強い、良さそうじゃないか、と偽りを見せ。
そんな悩んでいるヨブの元に3人の友人がヨブを慰めに来ますが、ヨブを慰め励まし共に祈るどころか、因果応報論や勧善懲悪、自分の経験等による知識等によってヨブを苦しめます。ヨブはそれでも、神様がやがて彼を栄えに満ちた喜びの日へと必ず導かれると希望を持っていましたが、彼らは持論で説き伏せようとします。それでもヨブは神様にこそ知恵があり、今は苦しい、でもこの知恵にあって今まで生かされてきたんだ、だからこの神様と話したい、と訴えます。
そのヨブの前に、エリフが神様について、御霊に導かれ語ります。そしてエリフの話が終わった後、神様が登場します。神様はここまで、この天地を造られた神様が治め、地を作られた神様が用意された恵みの場所に私たちを導き治める、神様の御心の中に招かれている事を、どんなに驚異的な状況にあろうと、神様が希望の光を持って導かれる、喜び・命の衣を神様が着せてくださり、生かし続けて下さる、だからこの方に委ねる事、サタンに崩されることなく、すべ治める神様の御力中生きる事を観てきました。↑はその神様のヨブへの語りかけの続き。
↑の直前まで恐竜の2匹、ベヒーモスとリヴァイアサンがでてきましたね。↑はその特徴の続き。「だれがその外套をはぎ取ることができるか。だれがその胸当ての折り目の間に、入れるか。だれがその顔の戸をあけることができるか。その歯の回りは恐ろしい。その背は並んだ盾、封印したように堅く閉じている。一つ一つぴったりついて、風もその間を通らない。互いにくっつき合い、堅くついて離せない。そのくしゃみはいなずまを放ち、その目は暁のまぶたのようだ。その口からは、たいまつが燃え出し、火花を散らす。その鼻からは煙が出て、煮え立つかまや、燃える葦のようだ。その息は炭火をおこし、その口から炎が出る…」と。どうやっても戦いようがない。
でも考えてみれば私たちの現実の中に、どうやってもこれに打ち勝つすべがない、どうやったら弱点を作る、そこにつけ込むのか、そんな事をしている間に、様々な攻撃がある。ここ数年の世界的な問題もしかり、わかりやすいそういう攻撃ならまだはっきりしますが、↑の一番最初に神様が美辞麗句を並べるこの者に黙っていることが出来ない、というように、私たちを思い煩わせ、神様から引き離す、一軒行っていることは正しいけど、神様から引き離す、結局着地点を見いだせず苦しむ。
それはね、ありのままでいい、とか美辞麗句を並べる人なんていくらでもいますよ。でも彼らはあなたに責任を取る事はしない。サタンも。ほらほら、これは素晴らしいでしょう、さあ、これに乗ろうよ、と経済とか様々な姿かたちを変えて私たちに誘惑をし、迫ってくる。
でも、問題なのは、それらは神様があなたを導こうとされている命の道ではなく、一時的に自分が満足し、疲れ、枯れる、そんな道に招いている点。美辞麗句、お世辞、でもそれが一時的に励みになっても一体いつまで続くだろう。ラブシャワー、これ、いつまでも続きますか?尽きぬことのない経済、価値観などあるだろうか。結局、神様があなたに着せようとしている、まさにその該当を逆に剥ぎ取り、神様がその命、御心で守られ、導かれる、その盾となってともに進んでくださる、私達を踏み倒そうとするものを打ち砕かれる、その神様の素晴らしさを忘れさせ、離れ、結局疲れ、倒れる。
よくありのまま、などという言葉が叫ばれますが、とんでもない。神様は罪のまま、罪にとどまってありのままでいることを良いなんて思うわけがない。むしろ、神様は命の道に導きたいのです。あなたに本来の姿、神様がイメージして造られた最高の姿に近づけたい。月日とともにわずかずつでも主イエス様に似たものに導きたいのです。神様の御心を働かせ、その栄光、素晴らしい御業を成し遂げたいのです。ときに美辞麗句ではなく厳しい語りかけはあるかもしれない、悔い改めには時には痛みが伴うこともある、でも、そこから神様の方へと導かれるのです。
サタン、「すべての誇り高い獣の王」は、勝てないことは知っていながらもそれでも少しでもと獲物を狙おうとする。イエス様にさえ誘惑を仕掛けるくらいですから。しかし、神様は、悔い改めには痛みが伴う、罪の精算が必要、その生産を御子イエス様のいの地を持ってし払われた。私達の罪の身代わりに十字架にかけ死なせ、その生命を持って精算された。と同時に3日めによみがえられたことによって、この精算された命を受け取る、悔い改めるすべての人を神様の子としてくださり、「わたしのもの」、真の王、神様の子として迎え入れてくださるのです。
神様の言葉は実行が伴う。美辞麗句、お世辞とは違う、虚しく帰ってこない愛。あなたのためなら御子イエス様の命さえ惜しまない。今日、あなたを打とうとする、あなたを悲しみに引き込もうとするサタン、様々な問題から目を上げ、神様の御心を祈り求めよう。祈りの手をあげよう。主はその手を取り、命の道を、あなたとともに世の終わりまで導かれるから。