―愛されている特権、だからこそ― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「私がまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し、私の神の聖なる山のために、私の神、主の前に伏して願いをささげていたとき、すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、私に告げて言った。『ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。』」

ダニエル書9章20-27節

 

人は愛を求める。多分ほとんどの人が何かしらの形での愛を求める。家族愛、夫婦愛、友情その他もろもろ。でも愛というのはとんでもないすごいもの。一口では語れないほどに素晴らしいもの。神様はその一口では語り切れない大いなる愛をあなたに今日も注ぎたい。この愛の交流に生きよう。

 

さて、↑は「メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、すなわち、その治世の第一年に」、「ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った」そこで神様の前に悔い改めの祈り、先祖たちが犯してしまった罪、それゆえに今捕囚にあっていること、でも神様にそれでもつながっていたい、と祈っていた最中、↑のように天使というか、御使いガブリエルがダニエルの前に現れ、神様のご計画、幻を見せるのでした。

 

昨日も分かち合いましたが、70年の約束を迎えたのだから、あとは好きに生きる、という選択もある意味ではできる。でも、それはただ一時的な捕囚から解放されるだけであって、罪・サタンの手から取り戻されたわけではない。神様につながり続ける、それがなければ意味がない、とダニエルは祈るのでした。いつものように。

 

↑のガブリエルの示した幻の前に、ダニエルはこんな風に告白しています、神様に。「あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。これは私たちが神にそむいたからです」と。神様に背いてしまって、失われた憐れみと赦し、でも神様はそれでも私たちを、彼らを憐れまれるのです。

 

ダニエルにガブリエルはまずこのように語り掛けます。「あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ」と。

 

この「愛されている人」という言葉はとんでもなくすごい意味を持っています。私もびっくりです。愛?いつかは裏切られる?とんでもない。このことば、もともとのことばでは、「最良の、貴重な、尊い、高価な、ごちそう、財宝、宝物、愛されている人」という意味を持っている。神様に愛されている人、神様が愛を注ぐとき、神様は、私たちに、パン屑とかどうでもいいものを出すのではなく、最良の、基調で、尊い、交かな、私たちを生かすごちそう、この世の財宝、宝物にも勝る最高のものを、愛されている人に注がれるのです。

 

神様は愛なり、ということばは有名。結婚式でも語られることもあるでしょう。でも、これは言葉だけが踊って、私たちはどれだけ神さまの愛を受け取っているだろうか?というよりも神様の愛をこの世の人間同士の愛レベルにまで引き下げていませんか?神様は愛を注ぎたい、その愛はこの世のレベルでは計り知れない。

 

それほど大切な人故に神様は私たちに語られる。時にはみ言葉から、時には祈りの中で、時には何か幻的なものをもって、誰かの口を通して…放置せず、導かれるのです。誰かに任せきりにする神様ではないのです。ガブリエルはその彼にこう言います。「そのみことばを聞き分け、幻を語れ」と。私たちはこの神さまの愛を受け取り、聞き分け、受け取る、そして真実として告白する、誰かに分かち合う、これが大事。このいのちのことばを。そこから大いなる喜びは広がる。

 

話はさらにガブリエルを通して神様が語られたことに目を移すと、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐ」と約束されています。70週の預言、と↑では書かれていますが、これは諸説あります。ただ言えることは、罪を終わらせるために、神の御子イエス様に、私たちが負うべき咎を背負わせ、私たちが神様の愛を知り、もう神様に背くのをやめる道を備えられた。

 

まさにイエス様によって成就されました。イエス様が十字架に私たちの罪を身代りに背負われて十字架にかかられ死なれたのです。ありえない。でも、これが愛されているもの、神様が愛する私たちに注がれる、先ほど申し上げた「最良の、貴重な、尊い、高価な、ごちそう、財宝、宝物」なのです。ここにすべてがある。

 

私たちは十字架をただの象徴として見ているうちは本当の意味で愛を受け取れない、愛を差し出されてもあなたの内にごちそうにならない私財法にも宝物にもならない。でもこの十字架と復活をあなた自身の子として受け入れる時、あなたの罪のためになされた神様の「愛」として受け入れる時、あなたの内に神様の大いなる義がなる。

 

70週の預言、これ本当に複雑なんです。ざっと見ると、やがて偽キリストが現れ、世を支配し始める。イスラエルと平和締結を結び、第3神殿を建てて。統一宗教、統一政府、それに従わない人たちは買い物もできない、迫害、大患難時代に入っていく。最後の時、イエス様がもう一度来られ、最後の審判を下され、サタンを幽閉。のちに千年王国というイエス様の治める国が建ち、その最後にサタンの完全な滅びへと向かっていく。ダニエルの時代を超えてやがて、今支配しているサタンと神様の戦いと顛末を示された。ガブリエルを通して神様は。

 

でもどうしてそんな先のことを神様は先に語られたのか。私たちには救いがあるからです、そのような艱難な時代にあっても、イエス様を救い主として信じるすべての人は守られる(艱難前に軽挙され、神様の元に引き上げられて守られるか、艱難後に軽挙されるならサタンへの裁きから守るしるしが与えられる)。

 

ただ、神様は私たちにそのように予め救いの道を、イエス様のいのちにあって示してくださった、与えてくださった「愛された」。おそらく今の時代、そのような大患難までいかなくても私たちには艱難と思うことはたくさんあるでしょう。しかし、神様はイエス様にあって、その救いの道、ご自身の道に引き上げようと、御子イエス様のいのちをさえかけられた。

 

ダニエルを通して神様は、「引き揚げてエルサレムを再建せよ」とおっしゃられる。この後イスラエルは帰還し、再建を始めます。でもそこからすべては始まる。私たちも神様との生きた交流のいのちの神殿を建てあげることから始まる。神様の「愛」を受け取り、私たちはこの「最良の愛」を信じ、この愛に生きよう。その時、私たちは最後、永遠の義をいただく、最後勝利を得る。神様の大いなる計画の中、御子イエス様を命を懸けて遣わし、聖霊様があなたに今注がれている。真の「愛」の交流、私たちも応答し、歩もうではありませんか。