―あなたのために沈黙されず、愛は燃え盛る― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。あなたはもう、『見捨てられている』と言われず、あなたの国はもう、『荒れ果てている』とは言われない。かえって、あなたは『わたしの喜びは、彼女にある』と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。主は右の手と、力強い腕によって誓われた。『わたしは再びあなたの穀物を、あなたの敵に食物として与えない。あなたの労して作った新しいぶどう酒を、外国人に決して飲ませない。取り入れをした者がそれを食べて、主をほめたたえ、ぶどうを取り集めた者が、わたしの聖所の庭で、それを飲む。』通れ、通れ、城門を。この民の道を整え、盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。石を取り除いて国々の民の上に旗を揚げよ。見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。『シオンの娘に言え。【見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある】と。彼らは、聖なる民、主に贖われた者と呼ばれ、あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる。』」

イザヤ書62章1-12節

 

最近の世の中を見ていると、神様は沈黙されている、なにもされない、と思う人たちも多いでしょう。でも、神様は沈黙される神様ではない。人の目には沈黙しているようでも、今日も神様の愛は、現在進行形で動かれている。あなたの灯に火をともすべく。まず私たち自身が神様の前に沈黙する、あきらめる、そのようなことがないよう、神様に叫び求めようではありませんか。

 

ということで、受難週・イエス様が私たちの身代わりに罪の呪い・刑罰を受難される、引き受けられ、十字架で死なれる。その中にあらわされたイエス様の救い、愛を覚える週。昨日少し分かち合いましたが、イエス様は十字架に昇られるこの受難の道、その最初のころ「わたしの父の家は祈りの家と呼ばれる」と宣言された。祈りが飛び交うだけの家、場所、宗教行為としての祈りが飛び交う場所ではなく、神様を求める人々の叫びと、その祈りへの応答、神様の御業が飛び交う家、これにイエス様は私たちを招かれる、それが十字架の目的の一つです、と昨日分かち合いました。

 

せっかくなので、もう少し祈りの家について考えていたのですが、世のイメージも、クリスチャンも陥りやすいのですが、教会とは建物である、と。これは大きな間違い。今特にコロナで教会が立ち行かなくなってきているけど、建物ではないのです。教会とは、キリストの、イエス様の体、それに連なる、つなげられる、それこそがイエス様の招き、祈りの家への招きなのです。

 

キリストの体、となると、無機質な者とは根本的に違うことが分かりますね。生きた、生ける神の御子イエス様、この方にあって私たちは生かされる。↑で、イザヤを通して神様は預言されます。イザヤの時代、アッシリヤやバビロンによってイスラエルは苦境に立たされていた、今のコロナ問題のレベルではない。絶望そのものでした。その中で、イザヤを通して神様は語られるのです。これより何章か前から、アッシリヤ・バビロンの捕囚はあるけど、必ず開放するっと。

 

イスラエルは、列王記を今ずっと分かち合っているのでその歴史を見てお分かりの通り、神様にさんざん逆らって、民には悪を行う…もう真っ暗闇、神様に捨てられてもおかしくない、そんな状況。でも神様は言うのです。「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは」と。

 

神様は、沈黙されない。黙って見過ごさない。黙りこまない。しかも「光を放たせる」ということは、神様は語るだけではなく、行動を起こされる方なのです。朝日の様に光を放ち、救いがたいまつのように燃えさかり、私たちの魂を燃やす(良い意味で)。たいまつが消えることがないよう、その燃料を加え加え、あなたの内側、魂を、あなた自身を、神様の光、命、御心、愛、御力…で燃え上がらせてくださるのです。絶望を希望に。神様は沈黙されない。むしろ私たちは神様のこの沈黙ではない情熱の愛の前に、こんなものはいらない、と沈黙、応答しない沈黙を決め込む。

 

神様は宗教施設を建てたいのではない親・子・兄弟・姉妹…そうした家族として、人格のあるその交流に私たちを招かれるのです。家の中に沈黙はありますか?家は一日何もなければ終わりなのですか?親子の交流が継続的にあふれているでしょう?

 

神様の願いは、あなたが喜びに満ち溢れる、その灯の火が燃え盛ることです。「主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ」と神様が宣言されている通りです。

 

救って終わりではない、あなたの内に神様の喜びが満ち溢れる、というよりもあなたという存在を神様は喜ばれる。だからこそ、その喜びの対象であるあなたのために、沈黙せず、命を懸けて神様は行動を起こされた。イエス様を人として遣わし、その愛を現し、具体的な必要にも応えていった。霊的なことにしか興味ないから、救われればいいから、病気は放置、とか悩みを放置されず、一つ一つの必要に答えていかれた。

 

でも、私たちの内の魂、真の命が奪われることなど黙っていられない。だから、イエス様はその神殿を汚す、強盗の巣になっている状況に怒られた。そしてこれを清められた。あなたの内側にあるべきは、偽物の宗教行為や思想、絶望であってはならない、とそれらを追い出し、清めようとされた。神様は、あなたの命が失われることを怒りの涙、聖なる怒りをもって黙っていられない。

 

だからあなたの魂を、あなた自身を救い、その暗闇から釈放し、ご自身のいのちの家に、祈りの家に、神様の愛、御心が飛び交い満ち溢れる神様の家族に連れ帰ってくださる。そのため、イエス様は私たちが支払うべき罪の代価、死を身代りに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。そして3日目によみがえられ、信じるすべての人、イエス様を救い主として信じ受け入れるすべての人の家は建て直され、復活のイエス様の住まう栄光の家、神殿と造りかえられるのです。あなた自身の内が祈りの家、神様のいのちが溢れる家、聖霊様がその灯が途切れる事のないよう燃料を灯し続けてくださるのです。

 

神様は「わたしは再びあなたの穀物を、あなたの敵に食物として与えない。あなたの労して作った新しいぶどう酒を、外国人に決して飲ませない。取り入れをした者がそれを食べて、主をほめたたえ、ぶどうを取り集めた者が、わたしの聖所の庭で、それを飲む」と、神様の御心を私たちが集め、味わう、と御子イエス様のいのちにあって約束された。

 

今日、私たちはどう応答するだろうか?神様が沈黙しているのではなく、私たちが沈黙している。だからこそ、私たちは祈りの声を上げよう。神様の御心をここになしてください、あなたの御国をこの地に建てあげてください、と。あなたをサタンも、コロナも、この世のすべては支配できない。今日、このイエス様の招きに応え、イエス様のもとに帰ろうではありませんか。イエス様の家に、Stay Home、留まり続けよう。