―私の家においでください!― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「…ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。『さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。』そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」

ルカによる福音2章1-20節

 

クリスマスイヴ。町ではイエス様の誕生を祝うわけではないけど、「クリスマスイベント」を盛大に楽しみ喜ぶ。喜ぶ対象はむちゃくちゃだけど、それでもクリスマスを通してキリストに触れられる機会があるというだけまだよいのか。いずれにしてもイエスキリスト様はかのクリスマス、どこか遠い所ではなく最も間近なところに来てくださった。私たちもこのイエス様を拝みに・会いに行こう。

 

さて、↑は今から約2000年前のクリスマスの出来事です。一昨日はマリヤ、昨日はヨセフ。今日はこのクリスマスにイエス様と出会った羊飼いたちの話。

 

このクリスマスの前、人口調査の命令が出て、それぞれ生まれた町に帰って登録しに行かなければならず、マリヤとヨセフは、ヨセフの生まれた町に向けて旅立ちました。ちなみに、ローマの人口調査の目的は、一つは税金徴収、もう一つは何年も前に映画になった「マリヤ」という映画の解釈のように、救い主誕生を見越して、生まれた町に帰らせ、預言された部族に絞る、という目的があったかもしれませんが。

 

そんなわけでたくさんの人たちが生まれ故郷に帰ってきたため、今にも子どもの生まれそうなマリヤやヨセフの泊る場所などありませんでした。面倒事を抱えたくない、というのもあるでしょうけど。そこである宿屋のご厚意で、家畜たちの休む家畜小屋、というよりも暗い洞窟が提供され、そこでイエス様はお生まれになられた。

 

救い主としては信じられない待遇じゃないか。家畜のにおいが溢れ、うるさく、不衛生、ベッドはふかふかのベッドではなく、動物たちのエサ入れ、意思の入れ物、そこに飼い葉おけが敷き詰められ、寝かされた。

 

それにしても、神様もやろうと思えば宿屋を無理やり開けさせ、大切なイエス様の寝床を確保する言だってできたはず。ないし、神の御子ですよ?立派なホテルとか、王宮でもいいじゃないですか。どうしてそんなところに。でも、そんなところだったら、↑で登場する羊飼いたちなど決して来ることはできなかった。遠い手の届かない存在となっていた。でもそうじゃない、神様は私たちの遠い手の届かない存在としてではなく、身近な、あなたと共に喜び悲しみを分かち合い歩む、インマヌエルなる神様として生まれてこられたのです。それこそが神様の意思だった。

 

当時の羊飼いというのは本当に立場が弱かった。羊の世話から離れられないから、安息日を守れない(宗教行事、これを守れないという事は当時はあり得ない話)ため、元犯罪者だったり、貧しい人たちに押し付けられていた。そんな社会からつまはじきにされているような人たちだから、そんな王宮や町中の宿屋だったら追い出されていただろう。

 

しかし神様はそんな彼らにも、この喜びの印を告げられた。マリヤやヨセフだけじゃない。そのような羊飼いたちにも。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」と。

 

そして天使たちと共に喜び賛美する者たちに加えられたのです。これは、あなたのため、あなたもここに招くためにイエス様が生まれてこられた、と。どこか遠くではなく、手の届かないところではなく、あなたのすぐ間近に。間近な存在として。

 

ブログやFBでも分かち合いましたが、以前、アメリカの小さな村の教会でクリスマスに起こった出来事です。教会学校でイエス様の誕生の劇をすることになりました。子供たちはそれぞれに役をもらいました。

 

ところが一人の知恵遅れ(表現が微妙ですが原文のまま)の男の子が役をもらわずに帰った事がわかりました。先生たちは相談して、その男の子のために役を作りました。馬小屋付きの旅館の男の子にしました。台詞は一つ、「だめだ、部屋はない」。そして、裏手の馬小屋を指すという。男の子は喜び、そして家で何百回も練習しました。

 

クリスマスの日、村中の人が教会に集まりました。お祝いの最後を飾るクリスマスの劇が始まりました。日の落ちたベツレヘム、長旅に疲れ果て、すべての旅館で断られたヨセフとマリヤが少年の旅館にやってきました。「私たちを泊めてください」。少年は大きな声で言いました。「だめだ、部屋はない」。重い足を引きずるようにして二人は馬小屋に向かいました。その後ろ姿を見ていた少年の目に涙があふれました。男の子は、わぁっと泣き出すと、ヨセフにしがみついて言いました。「馬小屋に行かないで。僕の家に泊まって」。

 

劇は中断し、先生が舞台に飛び上がって、男の子を引き離しました。しかし、長いこの村の歴史において、これほどの感動を呼んだクリスマス劇は後にも先にもありませんでした。

 

羊飼いたちは、この知らせを聞きイエス様の元に駆けつけました。イエス?あって何になる?私の生活の足しになるのか?とは考えず行った。そこで見た赤ちゃんイエス様。羊飼いたちは落胆せず、自分たちという馬小屋、暗い悲しみの家にイエス様を招き入れ、喜び踊りながら帰って生きました。一方宿屋の主人たちは、せっかく救い主イエス様のお生まれになる場所となるチャンスをフイにした。

 

イエス様はあなたの身近な存在となるため人となって生まれてこられた。どこか遠い手の届かない存在としてではなく、あなたと一緒に喜びも悲しみも分かち合い、共に歩むインマヌエルとなるため。ぜひ今日、あなたの家においでいただこう。イエス?そんなのの居場所はない、と追い出すのではなく、「馬小屋に行かないで。僕の家に泊まって」とお招きしようじゃないですか。あなたの家、あなたの宮が仮に罪にまみれ、また苦しみによってくたびれ果てていようとも、イエス様があなたの内に住まわれる時、そこは輝く栄光、宮、あなたへと変えられる。

 

クリスマスはかの時に終わるのではなく、ここから始まるのです。「馬小屋に行かないで。僕の家に泊まって」これを我が心としよう。このイエス様と歩み続けよう。イエス様が変えられた新しいあなたをイエス様と共に。