―ここにも恵まれた方がいた― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』 (訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」

マタイによる福音書1章18-25節

 

今から約2000年ほど前のクリスマス(クリスマスというのは、イエス様おめでとうという意味で、12/25が実際の生まれた日ではない)、神の御子イエス様が人となってお生まれになりました。みなさん、クリスマスの主役はサンタでもあなたの恋人でもない、イエス様です。でもこの主役から私たちは大いなる命をいただくのです。

 

ということで、クリスマス間近という事でイエス様の誕生の際にあった話を分かち合いますね。昨日はマリヤ。今日はヨセフ。イエス様の養父となる人の話。クリスマスの話はマリヤのことは良く取り上げられる、彼女の信仰も。でも、あまり目立たないヨセフにも神様の恵みは届いた…

 

と、話は↑に進めて、マリヤの許嫁のヨセフ。彼はある時驚くべきことを知ります。妻のマリヤが妊娠している、と。人間の目で見てもそれはびっくり、文春砲じゃありませんがビッグニュース。大変な話です。彼らは今の時代のような性の価値観の中に生きているのではなく、婚前交渉など、あり得ない、もしあろうものなら石打による死刑という中です。そしてその権利者は、夫にあった…

 

ヨセフはそれでも、去らせればマリヤの石打は避けられる、彼女に生きてほしい、そう願い去らせようとした。そんな彼に御使いを神様は送られた。マリヤに送られたように。そしてこう告げられた。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と。

 

マリヤは何か姦淫の罪を犯し身ごもった分けではない、聖霊様によって身ごもったのだ、と。これを読んだ方、初めて聖書に触れる方は、は?と思うかもしれない。んなわけないでしょうって。でも、これは大きな分かれ目なのです。神様の恵みの計画、救い主誕生、マリヤに訪れたものだけじゃない、このマリヤと夫婦になるヨセフにも訪れたとんでもなく素晴らしい恵みの機会だったのです。処女が身ごもる?ありえない。聖霊様にしか成す事が出来ない。これは神様の意思によらなければならない話。その神様の意思が自分にも向けられたのです。

 

昨日、マリヤへの受胎告知の時御使いがこのように言ったのを分かち合いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。あなたはどの女よりも祝福された方です。…こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」と。神様は、マリヤだけに恵まれた方としようとしたわけではなかった。全人類の救いのために今、御心が注がれた。イエス様の養父、養母となるという事は、イエス様の最も身近で生きる事が出来るという最高の権利を、恵みをいただけるのです。

 

胎に宿るそのマリヤだけに、じゃない。ヨセフにも。私たちにも。まさに参加する機会が示された。イエス様の御側で生きる事が赦される。ただ、ここには決断が伴った。そんな馬鹿な話があるか、とマリヤを石打にする、聖霊・神様の計画がなろうとしているけど、それはわたしの概念ではあり得ない、と排除するか、それとも、この恵みは、他の誰でもない、自分に今注がれている神様の愛、と信じて受け入れるか。

 

イエス様は、インマヌエル「神は私たちとともにおられる」です。他の誰でもない、あなたのインマヌエル・救い主、神となられるためにかのクリスマスに来られた。他の誰か遠い人の話ではない。あなたへの神様の贈り物です。私たちはこのインマヌエルなる方を、私たちも受け入れる時、見る、体験するのです。ヨセフと同じように。クリスマスが、イエス様が来て終わり、ではなくここから始まったように、あなたが受け入れる時、ここからあなたにもクリスマスが始まる。ヨセフが恵まれた方、となったように、あなたも恵まれた方、となるのです。

 

イエス様はあなたと共にいる、あなたと共に生きるため、神であられるのに、そのありようを捨てられないとは考えず、罪を犯さないという点を除いて全く人と同じになって生まれてきてくださった。これがクリスマスです。でも、ただ来て終わりではなく、同じ人としてインマヌエル、共に歩み、同じ重荷を一緒に背負われ歩まれる。でもそれだけじゃない、そこから解放するため、何より罪の呪い、罪から解放し神様と和解させるため、私たちの罪を身代りに背負われ、十字架で身代りに罰せられ死なれた。あなたの罪の刑罰にまで一緒に付き合う、ではなくあなたの身代わりに背負われたのです。あなたを罪の奴隷、サタンの支配から解放するために。

 

そして3日目、よみがえられたことによってこの束縛から私たちは自由となる。あなたが罪を認め悔い改めイエス様の救いを受け取るなら。あなたは神様の子となる。この素晴らしい永遠のインマヌエルに、神様の恵みに参加させていただけるのです。神様の家族として受け入れられるのです。

 

今日、このクリスマスプレゼント、いやプレゼンス・神様の臨在・イエス様自身をいただきましょう。そしてこのインマヌエルなるイエス様が一緒におられるんだから、私たちもイエス様から離れず、イエス様がわたしたちの内に現そうとされる御心に大いに期待し、委ね、共に歩もう。