「ユダとベニヤミンの敵たちは、捕囚から帰って来た人々が、イスラエルの神、主のために神殿を建てていると聞いて、ゼルバベルと一族のかしらたちのところに近づいて来て、言った。『私たちも、あなたがたといっしょに建てたい。私たちは、あなたがたと同様、あなたがたの神を求めているのです。アッシリヤの王エサル・ハドンが、私たちをここに連れて来た時以来、私たちはあなたがたの神に、いけにえをささげてきました。』しかし、ゼルバベルとヨシュアとその他のイスラエルの一族のかしらたちは、彼らに言った。『私たちの神のために宮を建てることについて、あなたがたと私たちとは何の関係もない。ペルシヤの王、クロス王が私たちに命じたとおり、私たちだけで、イスラエルの神、主のために宮を建てるつもりだ。』すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。さらに、議官を買収して彼らに反対させ、この計画を打ちこわそうとした。このことはペルシヤの王クロスの時代からペルシヤの王ダリヨスの治世の時まで続いた。アハシュエロスの治世、すなわちその治世の初めに、彼らはユダとエルサレムの住民を非難する一通の告訴状を書いた。また、アルタシャスタの時代に、ビシュラム、ミテレダテ、タベエルとその他の同僚は、ペルシヤの王アルタシャスタに書き送った。…」
エズラ記4章1-10節
私たちが世の中で生きていく上で隣人との関係はとても大事です。しかし、時にはゆずってはいけないものもある。私たちは神様を第一とする、ここが欠けてはいけない。この神様の愛を隣人に分かち合う、そのためにも神様については妥協してはいけない…その決断を通して神様が働かれる事、大いに期待しよう。
さて、↑はエズラ記が続いていますが、紀元前536年頃の話です。イスラエルがバビロン帝国に捕囚され70年、神様がペルシャ帝国の王クロスを助け、働き、ついにバビロン帝国が討たれた。
クロス王はこれまで何度も書いてきましたが、このようにイスラエルの民に向けてだけではなく自分の国に向けても公的に残した。「天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である」と。驚くべきことに、確かにこの勝利は神様のものである、と宣言した。自分の勝利とはせず、神様に栄光を帰した。そして驚くべきことに、イスラエルの民の期間を赦し、しかも援助まで申し出た。彼は神様の素晴らしさの前に跪いたのでした。
まさに今のイスラエルの民は神様の御手の中にあり導かれた。そして今神殿を回復させるため取り掛かっていた。しかし、↑、なんと現地の民が、王発案のものならと、既得権益を求めて近づいてきました。我々も協力したい、一緒に神殿を建てましょう、と。現地住民、もともと住んでいた人たちですから(といっても、アッシリヤ捕囚によって異国の地から来て、イスラエル人と結婚した人たちと思われる)、これに携われるなら、自分たちに利益をもたらすはずと考え、近づいてきました。
それを断ったイスラエルの民に対する掌返しを見てわかる通り、彼らは本気で神様を求め、礼拝をしたかったわけではなかったのがよく分かる。本当に、神様を求めているなら、もっと必死になったはず、しかし、ならば、と反逆に出たあたりから言うまでもない…ちなみにかつてイスラエルがイスラエルの地に帰ってきた頃、イスラエルに加わりたいと、イスラエルと敵対する連合軍を裏切りイスラエルに加わった民は、受け入れられましたし、10代経ってもイスラエルに加わる事は許されない、と言われた異邦人も加わり、イスラエル王家の血筋となる事を赦された、という事もあります。神様は求める人を拒まない。悔い改め立ち返る人たちを拒まないのです。
と、話は先に進めて。実にこのイスラエルの対応については意見が真っ二つに分かれそう。たぶんクリスチャンの間でも意見が分かれそう。私も、この投稿をどっち側の視点に立つべきか?と思ったほど。一つの視点は、もっと妥協して、愛をもって接していればこんな反逆に会わなかったのではないか?隣人と愛を持って生きよう、時には妥協してでも、というもの。確かに、もしかしたらここで妥協して彼らを受け入れればもっと楽だったかもしれない。4章の最後の方では(明日分かち合う予定)工事が2年間中断されてしまいます。クリスチャンからももしかしたら、これはあまりに律法主義的だからこんな目に合うんだ、と言われるかもしれない。
私たちだってそうでしょう?日曜日教会に行かずに友達にあっていれば、もっと証する機会ができるかもしれない、友情関係にひびが入るじゃないか、と恐れる。でも、私たちは神様を侮っていないだろうか?私たちは妥協して生きないとうまくいかないものなのだろうか?いや神様の御力は世に劣る物なのだろうか?このイスラエル人たちの断固たる対応を見て、そう思わされた。
確かにここから2年中断され、攻撃もあり、苦労していく。世の中だってそう。神様を信じたら何も戦いはないわけではない、でもそれは神様を信じている人でもいない人でも同じ。ただ、私たちが神様という最高の味方を疑ってどうします?この捕囚からの解放は、神様の御手の中動いたんですよ?その神様を疑ってどうします?
ちなみに、↑に登場します、アハシュエロス王。彼にはエステルという素晴らしい女王がいた。モルデカイという素晴らしい側近もいた。この2人は神様を愛し恐れる二人。彼らもまた神様の前に妥協せず歩んでいた。その証の姿がアハシュエロスの心を動かし、神を神とも思わないアハシュエロス王を悔い改めに導くという驚くべきことをなされた。そして、このアハシュエロスのゆえにか、守られていた。どんなに告発状が出されようとも。やがて神殿は完成へと導かれていく…神様の確かな計画は完成されたのです。彼らの内に。どんなにサタンが、世が、彼らを訴えようとも。
「私たちの神のために宮を建てる」、神様との関係を妥協してはいけない。むしろ神様を求め祈る中で、そのあなたの決断を通して神様の素晴らしい御業がなされていく。神様の神殿が、御心が、御業が完成されていく、そうしてアハシュエロス王が変えられていったがごとく、世もまた神様こそ主であることを知るようになるのです。
神様が、あなたという神殿を回復させてくださる。神様が建て上げてくださる。私たちはこの神様との関係を大事にしよう。というよりも、他の偽の神々や世に、あなたの神殿を建て上げさせてはいけない。世はあなたに重荷を背負わせても、神様は一緒に背負ってくださり、建て上げ、導かれ、養われ、治めてくださる、あなたを。
神様はこれを御子イエス様にあって成就された。イエス様は私たちとくびきを共にし、重荷を友に背負われるために人となって生まれてきてくださった。同じ痛みを負いながらも癒され、励まされ…最後は私たちの罪の代価、死を身代りに背負われ十字架上で死なれた。でも3日目によみがえられ、あなたを覆う原住民や罪、サタンは打ち倒され、復活のイエス様があなたの内に住まわれ、あなたという神殿を共に建て上げてくださっているのです。
もう前回見たように礎は据えられている。そのノミを握っているのはあなたのためにいのちさえ惜しまず与えられたイエス様です。このノミをもう罪やサタンに渡さず、イエス様の御心が成りますように、と祈り求めて行こう。御子イエス様のいのちという代価を支払うほどに愛される神様の計画に大いに期待して。
