礎 | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「建築師たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、『主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに』と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。」

エズラ記3章11-12節

 

昨日書ききれませんでしたが、私たちのいのちの礎はなんだろう?どんなに立派な家でも、礎がしっかりしていなければその家はどうにもならない。倒れる事だってある。でも、私たちがイエス様という土台、礎の上に家を建てさせていただく、というよりもイエス様に建てていただく時、私たちは喜び溢れる。

同時に、イエス様信じます~神様信じます~と形だけ礎を据えても、↑のバビロン捕囚から解放していただいたイスラエルの民が神様に感謝したように、また建設を続けて行ったように、神様との関係をとだえさせてはいけない。私たちの建築士は、一級建築士どころではない。礎はイエス様のいのち、その材木は神様の御心、御力。建築者は何より御子イエス様のいのちを罪人の私たちのために与えるほどの神様。この神様との関係の内にあなたという神殿が建て上げられていく。栄光があふれ、賛美が溢れる日が来る。あなたはこの確信、ありますか?