ー神様に仕える恵みー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「…ヨシュアはすべての民に言った。『イスラエルの神、主はこう仰せられる。「あなたがたの先祖たち、アブラハムの父で、ナホルの父でもあるテラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、カナンの全土を歩かせ、彼の子孫を増し、彼にイサクを与えた。ついで、わたしは、イサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えて、それを所有させた。ヤコブと彼の子らはエジプトに下った。それからわたしは、モーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した。わたしがその真ん中で行なったとおりである。その後、あなたがたを連れ出した。わたしが、あなたがたの先祖たちをエジプトから連れ出し、あなたがたが海に来たとき、エジプト人は、戦車と騎兵とをもってあなたがたの先祖たちのあとを追い、葦の海まで来た。あなたがたが主に叫び求めたので、主はあなたがたとエジプト人との間に暗やみを置き、海に彼らを襲いかからせ、彼らをおおわれた。あなたがたは、わたしがエジプトで行なったことをその目で見てから、長い間、荒野に住んだ。それからわたしはヨルダン川の向こう側に住んでいたエモリ人の地に、あなたがたを導き入れた。…わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。」今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。』」

ヨシュア記241-14

 

クリスチャンのボブ・ディランの曲の中で、こういう歌詞があります。「人は確かに、誰かに仕えなくてはならない。必ず誰かに仕えなくてはならない。悪魔に仕えるかもしれない。主に仕えるかもしれない。けれども、誰かに仕えなくてはならない」。さて、私たちは誰に仕えるだろうか?

↑は、かつてエジプトに捕らえられていたイスラエルの民が、神様の憐みによって救い出され、今、先祖たちに与えると誓われた地にたどりついたところ。2代目のリーダーであるヨシュアがいよいよ死を迎えようとしている時、イスラエルの民に遺言として残したメッセージの一部です。

 

↑のポイントは、誰を神様とするか、誰に仕えるか、という事なのですが、冒頭のボブディランの歌詞しかり、私たちはこの地上の生涯、天の御国、父なる神様の御もとに帰るまで私たちは誰か、何かに寄り頼み歩むわけです。それは家族であったり友人であったり、神様を信じない人の中には占いであったり、地位であったり、名誉であったり。でも、その寄り頼む対象が何であろうとも、良くも悪くも影響を受ける、だから誰に仕えるのか、ただ首根っこをひっつかまえて従わせるのではなく、神様に従うときになにがあるのかを示されながら訴えるのです。

 

では神様は彼らに何を語られたのか。まず信仰の父と呼ばれるアブラハムの話から始めます。彼は、あの信仰の父と呼ばれたアブラハムはなんと偶像を造り、また拝む者だった。彼はある意味でそのまま残れば族長として地位も名誉もお金もある、そんな将来を保証されていた、でも彼はその中に喜びも何も見いだせなかった、だから神様に、私の示す地へ行きなさい、あなたを大いなる者としよう、と約束されたときに、そこで財産を増やしたり、地位を維持できるなんて保証はないけど、彼は月だけではなく、天地万物をも造られた神様と共に歩む事を求めたのです。

 

聖書の中のヘブル人への手紙という中にこうあります。「彼(アブラハム)は、堅い基礎の上に立てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神様です。・・・しかし、事実、彼らは、さらに優れた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神様は彼らの神様と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神様は彼らのために都を用意しておられました」。

 

そう、アブラハムは神様から離れたところに帰ろうと思えば帰ることもできた。でも彼は、神様が自分の生涯の内にたててくださる都、神様が「共に住まわれ」、「共に生き」、「働かれる」都、生涯を願ったのです。それを神様は喜び、恥とせず、アブラハムの中にも多くの失敗がありながらも彼の神様となり、住まわれ、働かれていた、祝福されたのです。

 

しかし、忘れてはいけないのは、先に祝福の約束を提示したのは神様である、という事なのです。他の神を拝む国にいながら、それでもアブラハムを覚え、私はそんな空しいところにいるあなたを放置できない、私のところに来るかい?そうしたら私はあなたを祝福するよ、と約束されたのです。何という感謝な事でしょう。まず神様の愛先行だったのです。神様は、ここに私たちを招かれているのです。神様が共に住まわれ、共に生き、働かれる、その恵みの中に私たちを招き入れたいのです。

 

出エジプトもそう。今彼らが体験したことを考えてほしい、決して彼らは善行を積んだわけではない、彼らの叫び声を聞いた神様からまず動かれ、中心に立ち、先頭に立って戦われた。海も開き彼らを追いかける過去の痛みも罪の象徴もすべて葬り去った、呪わせようとした者を、祝福者に変えた、いつも彼らの前をくまばち、神様の善が前を行かれていたのでした。

 

だから、これからイスラエルの民よ、色々あるかもしれない、周りにも色んな敵国がある事は重々承知、でも、これまでそのような中にあってもあなたがたと共に住み、進み、神様の善を前にいかせ、働かれてきた神様、罪を犯しても立ち返る民を見捨てられなかった神様の内に歩むように、信じ信頼してほしい、恐れ、誠実と真実を持って神様に仕えるように、と訴えているのです。

 

皆さんはどんな神様を愛していますか?困ったときにのみ働いてくださる神様でしょうか?病気になったときに癒してくれる神様でしょうか?イスラエルの民はこの後、しばらくは神様のことを覚えていますが、だんだん農業素人の彼らは、農業のことは農業の神に、と現地に住む住民の信じる偽の神、バアルを拝むようになりました。残念ながら彼らの誓いは一時的なものだったのです。

 

神様を信じる、神様に仕えるという事はある特定の時に働いてくれる、自分の望みを叶えてくださる、と信じることではなく、結婚のようなもの、そのような方と共に、どんな時でも、仮に平坦なときでも困難なときでも神様と共にいきる、という事です。その中で神様が最善をなしてくださると信じて。神様はイエス様の十字架にあって私たちをこの恵みの世界に招き入れてくださったのです。

 

しかし、私たちは本来そのような関係に招き入れられるなどあり得ない話でした。私たちは神様を忘れ、神様を捨てる、自分の都合の良い、困ったときの神頼みレベルの神としか見ず、自分の都合のいい道具にしか見ていない。そんな私たちをどうして神様が愛せるだろう?とっくに見捨てられてもおかしくはないのです。しかし憐み深い神様は、私たちを造られた神様は、愛する我が子を見捨てることができず、このままサタンの手、罪に縛られ、命を失い行く事が我慢できなかった裁きに向かっていくことを我慢できなかった。

 

だから、私たちの罪を赦し、和解してくださるため、御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架に架け、その罰をその身に引き受けさせ、死なせたのです。そして、自分が罪人であることを認め、イエス様がその罪の身代わりとなってくださった、と信じ受け入れる時、私たちはイエス様の復活の恵みに与り、私たちは神様と和解させていただき、神様の子、やがてはイエス様の花嫁とされるのです。神様は、ここに私たちを招かれているのです。神様が共に住まわれ、共に生き、働かれる、その恵みの中に私たちを招き入れたいのです。あなたの内に御子イエス様にあって都を建て上げて下さるのです。神様が。

 

明日で2018年も終わろうとしている。今年一年を振り返っても様々な事があった。しかし、私たちはもう一度神様がどれだけ良いことをしてくださったのかを思い出そう。私たちが気づかないだけであまた、数えきれないほどの良い業を毎日毎日して、注いでくださっていた。何より神様はあなたのために御子イエスい様のいのちさえ差し出すほど愛している。改めて新年を迎える前に、もう一度神様の恵みを思いだし、「私はそれでも主に仕えます、従い歩みます」と告白し続けようではありませんか。