「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。…神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」
Ⅰヨハネの手紙4章9-16節
神様は愛です。そのことばは有名。ええ、事実神様は愛です。しかし、私たちはそれを信じているだろうか?どんな時にあっても、神様は愛だから、と信じ信頼しているだろうか?
今日で2018年も終わり。みなさんにとってはどんな一年だったでしょう?振り返るとそれぞれにいい事、大変だったこと、あったのかな、と思います。私個人としては、北海道大震災・ブラックアウトの経験。東日本大震災で、大きな地震と物資不足までは経験しても、今回の情報寸断、いつこれが回復するのかわからない、という先の見えない状況に陥った、この経験が一番大きかったのかな。
でも、確かに言えるのは、その間、いや、私の、私たちのこの一年、一日一日、神様もあなたと共にその歩みをされ、導かれていた、という事。私たちが元気だった日も、心が落ち込んだ日も、一緒に歩まれていたこと。私たちが知らないだけで、神様は私たちのことを心配してくださっていた。そして私たちを導いてくださっていたのです。
↑の手紙は、イエスキリスト様の12弟子の一人、ヨハネという人が書いたものです。彼はイエスキリストと出会って人生が変わりました。神などどこにいるのか、私の希望はどこにあるのか?という中、彼の人生に神の御子イエス様が現れてくださった。そして、彼と共に歩まれ、多くの奇跡、また愛を見た、何より、彼、いや全人類、私たちも含めたすべての人の罪を身代りに背負い十字架に架かられる、というそのあり得ない愛を目撃したのです。
だって彼は間近で見ていたのです。多くの奇跡を体験した群衆が、自分の思う通に動かないとわかると手のひらを返しイエス様を裏切った群衆、イエス様とならたとえ牢獄だろうがどこでも行きますと言って裏切った弟子たち、その筆頭格ペテロ。イエス様を十字架に架けたローマ兵。しかし、その十字架上で御子イエス様は何を祈ったか?「父よ、彼らをお赦しください、彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです」と。自分を裏切った者たちを目の前にしてもなお、彼らの弁明、赦しを乞い奉り願ったのです。ヨハネはこの愛を目撃した。確かにこのイエス様は愛だった、と。
実はこの凄いところは、御子イエス様のこの愛を、すごいね、で終わらせなかった、という事。これが私のための愛であった、と受け入れたこと。私たちだって情報として神様を知っている、イエス様を知っている、十字架を知っている。情報としてだったら誰でも知っている。たぶん。よっぽどのことがない限り。でも、私は別に罪人ではないし私には関係ない、と言っているうちにはこの愛は私たちとは無関係になってしまうのです。
神様は、この十字架で何をしたかったのか?それは私たちを罪の奴隷から解放、裁きからの罷免。そして神様の子として引き上げご自身の子・ものとしてくださることにあった。神様は口先だけじゃない、口で言ったことを実現させてくださる。ただわたしは愛しているよ、と口で言うのだけではなく、その愛を具体的に行動に愛されたのです。しかもそれは、ある時は愛するけどある時は愛さない、ではなく、あなたを丸ごと愛された故にその行動に移された。だから、あなたが死の内にあることを、サタンの手に縛られている事を我慢できない。神様は、私たちのために完全な愛をまず現してくださった。
でも、私たちはヨハネのように、この愛を受け取らなければ何も始まらない。それは私には関係ない、と受け取らなければ始まらない。「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます」とあるように、私たち自身がイエス様を追い出していてどうして住めますか?イエス様。イエス様の愛?そんな物よりもあっちの神が良い、あの偉い人が言っている言葉の方が人生の役に立ちそうだ、と言ってどうして神様の御心がなるだろう?私たち自身がイエス様を主として受け入れなければ何も始まらない。
でも、あなたが受け入れるその瞬間から、神様があなたの内におられ、あなたの内に神様の完全なる愛、御子イエス様を十字架にあなたの身代わりに架け死なせるほどに愛される、愛されたその愛が、御心があなたの内に実現する。世の終わりまで。これは理屈ではない、御霊によって私たちはこの愛を知るのです。
↑の手紙はヨハネの晩年に書かれた。彼は多くの迫害を受け、時には油の煮えたぎった窯に投げ込まれたこともあったとか。神を信じて何になる?神の愛なんて嘘じゃないか、と思ったなら、こんな手紙何て書かない。嘘っぱちだった、と書き残すでしょう。しかし、彼はそんなどれだけ迫害されようと、確かに神様はいつでも共におられ、神様が守り導き養ってくださった、この神様から与えられた人生は最高だった、どんな時も神様の愛は偽りがなかった、そう確信しているからこそ↑のように書き残した。
もうどっちつかずの神様への態度はやめよう。これは、あの人、これはあの偽神、これは神様、と使い分けるのは辞めよう。それは神様の愛を信じているとどうして言えるだろう?考えてみてほしい。白いキャンパスに、ある部分は神様、ある部分は別な人、ある部分は私が描く、その作品は完全だと言えるだろうか?神様こそがあなたの内に完全なる愛を現し導くことができる。本当のあなたへと作り変えることができる。
あなたの告白を、あなたの筆を神様に委ねよう。それでも神様は愛です、と信じ告白し委ねようではありませんか。明日をあなたに与えるのは神様。神様が共におられる、住まわれる明日をあなたに下さるのは神様。御子イエス様にあって。来年も、この神様の愛に信頼し歩もうではありませんか。