ー神様との人格的な交わりの中に生きるー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主はモーセに仰せられた。『あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、「これをあなたの子孫に与える」と言った地にここから上って行け。わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。』民はこの悪い知らせを聞いて悲しみ痛み、だれひとり、その飾り物を身に着ける者はいなかった。主はモーセに、仰せられた。『イスラエル人に言え。あなたがたは、うなじのこわい民だ。一時でもあなたがたのうちにあって、上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、あなたがたの飾り物を身から取りはずしなさい。そうすれば、わたしはあなたがたをどうするかを考えよう。』それで、イスラエル人はホレブの山以来、その飾り物を取りはずしていた。」

出エジプト記331-6

 

神様が共にいなければ意味がない。神様が共におられるという事は、神様との生きた人格的な交わり(交流)がある。そこの中に私たちは生かされるのです。私たちはどれだけ神様ご自身を、その御心がなる事を求めているだろうか?

 

さて、昨日の続きになりますが、↑はエジプトからの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、神様が彼らの先祖たちに与える、必ずそこに連れ帰ると誓われた地に向かっている途中の出来事。神様がご自身の宝の民とするとおっしゃられ、契約を結んだ。にもかかわらず、モーセが山に登り神様から与えられる素晴らしいご計画を聴いて40日近くたつと、民たちはいつまで自分たちを煩わせるんだ、自分たちのためになる、自分たちの役に立つ、操り人形となる神を造るように訴えた。

 

彼らは自分たちの役に立つ神だったらなんでもよかった。神様がどれだけの思いをもって連れ出されたのか、その恵みを忘れ、捨て、神様から離れて行く…その民に神様は怒りを覚えられた。いや、悲しみに満ち溢れた。モーセの執り成しで、彼らは滅ぶことは免れましたが、↑のように、もう共に進まない、そう宣言された。それが↑。

 

一昨日から神様が共にいなければ意味がない、という意味について見ていますが、今日はちょっと視点を変えて。ではどうして神様のご臨在が離れてしまったのでしょう?イエス様はインマヌエルなる方と呼ばれるというように、ずっと一緒なはずなのにどうしてその臨在が離れるなんて事が起こり得るのか?神様は愛の神様なんでしょう?と思いたくなるところ。実はこれはクリスチャンであろうと、そうでなかろうと重要な話です。

 

そもそもこの神様が一緒に進めなくなったことの発端は、イスラエルの民が神様を退け、金の子牛の偶像を作り、礼拝する、という罪が発端でした。そう、ここなんです。罪が原因なんです。特に今回は神様を退けたわけですから言うまでもありませんが。

 

神様はどこにでもおられます。偏在というのですが。神様の臨在から離れることは基本的にできません。しかし、今回のように罪がありますと、神様のご臨在が失われてしまいます。もう少し厳密に言うならば、「神様との人格的な交わり」ですね。これが失われるのです。一度救いをいただいた者は悔い改めれば罪は赦されますし、救いから漏れる事はありません。が、悔い改めないうちは神様とのこの関係が、生きた人格的な交流が失われるのです。神様ご自身はいらっしゃる。でも、私たちと、私と、あなたと、神様の生きた交わりが罪によって切れてしまうのです。

 

ダビデがバテシェバと姦淫を犯し、あげく隠蔽殺人まで行った時、神様をどけて自らの権威によって不倫して、うまく行ったように見えて、しかし神様が不在となってしまい、妊娠した子供も失い、人の慰めしか受けられず、信仰者ダビデでさえ、骨も干からびるほどに憔悴しきった、と告白します。人の慰めには限界があるから。

 

結局ここなんです。神様との人格的な交流が罪によって途切れるとき、私たちに与えられている聖霊様が与えてくださる神様の愛、救いの喜び、平和が失われてしまうのです。確かにイスラエルの民も約束の地を得られるかもしれない、しかし神様が共にいなければ、祝福は、恵みは決して流れない、人の手で成す事しかない。そして事実神様不在となった後のイスラエル王国は血なまぐさい、貧しいものは顧みられない、滅茶苦茶な時代になっていきましたし。神様の喜びで満たされ、生きる人たちが失われていき、そこにはいのちがありませんでした。

 

別に聖書の中だけでもないです。世の中を見回せば、神様の臨在のないところに、心の喜びも失い自分勝手になり、人間関係の崩壊、殺人、DV、汚職、もうめちゃくちゃです。うまくいっているようで実は本当の喜びあるいのちを送れていない。本などを読めばそこそこ一時的な平安をつかむことはできても、本当のいのちある平安、喜び、問題解決はつかない。それは一時的なもの。イエス様が一切背負われ十字架にかかられた、それゆえに与えられた聖霊様を通してこそ、本当の神様の平安、喜びを得られるのです。

 

私たちは本来神様から与えられた霊によって生きた者とされました。それは神様が与える祝福でありいのちであり、生きた人格的交流の部分です。だから神様との関係が絶ち切られてしまうと、私たちに本当の喜びも平安もいのちある歩みができないのです。見かけうまく行っても、一時的。礼拝も、日々の歩みもそうですよね。神様のご臨在を求めて初めて本当に生きた者となるわけです。本当の平安、喜び、祝福は神様との生きた関係、聖霊様が働かれる姉妹兄弟との関係の中に生まれてくるのです。

 

神様は、本来はこのいのちの関係の中に私たちを入れてくださっているはずだった。しかし、私たちは↑のイスラエルの民と同じで神様を神様とせず離れ、神様が一緒にいることを望まず、自分が好き勝手に生きる、自分の役に立つ神を置く。しかし、私たちは神様から離れて生きることはできない。神様の恵みなしにどうして生きることができるだろう?

 

しかしこれを失った私たちを見捨てる事の出来ない神様は、モーセが執成したように、御子イエス様を十字架に身代りにかけて死なせた。私たちの罪の身代わりに。彼らの代わりに自分が見捨てられる事を、神様と断絶される事を選ばれた。そして「父よ、彼らをお赦しください、彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです」と、いのちをもって懇願したのです。あなたがいのちを得るため。この本来ある神様との生きた交流の中に招き入れるため。滅びの中から引き上げ神様の子とするため。

 

イスラエル人たちは自らの装飾品をすべて取り、自分好みに生きるというその飾りを取り外し、神様の前に悔い改め、まあ完全な悔い改めではありませんでしたが、悔い改め、神様のご臨在を願い求めました。あなたの祝福がほしいです、と。神様の恵みという名の飾りを願ったのです。その彼らの姿を見て、神様は良しとされ、彼らすべてにその飾り物をはずすように命じたのです。そんなものは必要ない、私があなたに御心を現そう、と。

 

私たちがその身を飾るのは自らをよく見せようとする、もしくは自尊心や、守るためのよろいである必要はない、なぜなら私たちはイエス様の血潮によって洗い清められ、新しく義の衣を着せてくださり、神様の御心、愛であなたを覆う、イエス様のいのちを持って買い戻された神様の御心があなたを新しく形づくってくださるのです。「わたしはあなたがたをどうするかを考え」て下さっているのです、だからこそ御子イエス様をあなたのために十字架に身代りに架けられた。今日、私たちはイエス様の十字架の前にひざまずき、何を願うだろうか?