「わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。―主の御告げ―見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義』と呼ばれよう。」
エレミヤ書23章4-6節
イエス様は、私たちを牧され、いのちを得させるために来られた。どこか高いところで鎮座しているだけでは我慢できず、あなたのところにまで降りて来られた。神であられるのに。
さて、↑は紀元前、イスラエル王国がいよいよ深刻な危機に瀕している時に神様からエレミヤを通して語られたことば、約束。いや、もっと深刻。もう王国は壊滅、捕囚の時期が迫っていた。バビロンによって。
イスラエルの民は神様によってエジプトから救い出され、彼らの先祖に与えると約束されていた土地にまで帰って来た。そして王国も建てられた。全て神様の恵みの内に起こった。神様が牧し養い続けた、にもかかわらず彼らは神様などいらない、と離れ、捨てて行った。結果、北イスラエルはアッシリヤに、南ユダはバビロンに捕囚されていく事となる。
しかし、その預言と同時に神様は「牧者を立て、…牧させる」と約束されるのです。いや、それだけではない、散らされた民をも再び連れ戻す、と約束された。
神様はね、私たちが神様から離れ、世に、罪に、サタンに縛られ「恐れ…、おののき、失われること」を我慢できないんです。だって、元々は神様が私たちを愛し造られたのだから。何週間か前に書きましたが、神様は私たちの生まれる前から私たちを愛し、計画し、造られ、一人一人の名前を憶えて、あなたの名前を呼んで「わたしの目には〇〇(あなたの名前)は高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られるんです。
だから、神様は彼らがただただ滅び行くことを我慢できなかった。これから彼らが捕囚にあって行く中で2つの希望を語られた。一つは「牧者を立て」ると約束して彼らを神様が見捨てていないことを約束された。そうでしょう?見捨てているなら、そんな先の約束などしない。もしくは条件を付けて、これこれして償いをしたら、とかそういうふうにいうかもしれない。でも神様はその前に、牧者を立てる、と彼らを見捨てていないことを約束された。そして必ず連れ戻す、と。
事実神様は捕囚地にあっても、イスラエルの民を王宮に仕えるように助けられ、イスラエルの民を守り導いた。どんなに迫害下にあって絶滅しそうになろうとも必ず神様は助け手、導き手を通して助けられ、70年後にイスラエルの民を連れ戻されたのです。
牧者は羊を見捨てない。むしろ羊のために命を捨てる。命がけの愛を持っておられるんです。神様なんて信じたって何になる?神様よりも私はもっと良い物が欲しい、と思って、私たちが神様から自分勝手に離れ、疑い、別な飼い主の後をついていて見たり、自分で勝手に進んでみても、何も得られず傷つき疲れ倒れる。私たちがいのちを与えてくださた神様から離れてどうして生きて行けるだろう。神様は、私たちの牧者であられるはずなのに、その牧者から離れて、私たちはどうして生きて行けるだろう?
神様は私たちを愛し養われる。私たちのことを考えておられる。私たちは神様を疑うけど、あなたを愛し造られた神様はあなたを養い続けてくださっているんです。私たちが勝手に離れているだけで、神様はその愛を注ぎ続けている。しかし、私たちは自分から離れ、自分が王・神となり、その神様のいのちを失ってしまった。
イスラエルも同様だった。イスラエルの王国は、王を一度退ける必要があった。捕囚という形をとって。神様を神様としないで自分を王・神としていてどうして神様の御心がなるだろう。神様は無理やり従わせることができるけど、それはしない。ただ、神様以外の王によって傷つき、壊れてしまったイスラエルを回復させるためには、その王を、罪を取り除く必要があったのです。それが捕囚だった。そして彼らが神様に立ち帰り神様を神様として迎える時、彼らは本当の意味で回復することとなるのです。
神様は我に帰れ、と彼らを、私たちを呼び集めて下さり、元に戻そうとしてくださるのです、神様の民、子として。牧者は羊を愛する。その愛は中途半端なものではないのです。あなたにいのちを得てほしい、とご自身の元に引き寄せたいのです。支配するため?あなたに愛を現すためです。あなたにいのちを得てほしいからです。
だから神様はついに神の御子たるイエス様を今から約2000年度前に私たちのところに遣わされた。そう、↑の約束の2つ目は救い主イエス様を遣わす、直接神の御子たるイエス様が人となって来られ、導く、と約束されたのです。天の御座にどんと座っているだけではなく、人となって来られ、その愛を惜しむことなく注がれるために。
いやそれだけではない、私たちの内に巣食う傷、悲しみ、痛み、重荷、私たちの内を支配する罪・偽りの王サタンを追い出すため、神の御子たるイエス様は、何の罪もないのに、私たちの身代わりに私たちが支払うべき捕囚、刑罰、死を身代りに負われ、罰せられ、死なれた。十字架で。そして復活と共に、イエス様を自分の罪の身代わりとなり死なれまたよみがえられた救い主として信じ受け入れる人を、神様の元に引き寄せ、戻され、神様の子として迎え入れられるのです。あなたの内に住まわれ、神様の愛があなたの内を覆い、導き養われるのです。あなたの内に公義と正義を行われる。あなたがイエス様を救い主として受け入れるならその瞬間から。
もう私たちは自分を神として歩むのを辞めよう。自分の王座から降り、イエス様を迎え入れよう。あなたのためなら命さえ惜しまず捨てられるイエス様があなたを治めてくださるのだから何を疑う必要があるだろう。今日、イエス様を救い主として、あなたの王として迎え入れようではありませんか。イエス様はあなたに本当のいのちを与えるために来られた。それは一時ではなく、牧者として天の御国に行くその日まで続く。この主の御あとに信頼しついていこう、共に進もうではありませんか。その時あなたを保証され牧されるのは、あなたのために命を捨てることができる方・イエス様なのだから。