ーインマヌエルなる救い主イエス様を待ち望むー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。『あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。』するとアハズは言った。『私は求めません。主を試みません。』そこでイザヤは言った。『さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。』」

イザヤ書710-14

 

神様は、インマヌエル・神様があなたと共におられることを願い、御子イエスキリスト様を人となって生まれさせてくださった(もともと天地万物が造られる前から存在はしていましたが)。でも、私たち自身が神様から離れてはその神様の愛がどうして受けられるだろう?私たち自身も決断しなければいけない、神様と共にいる事を。

 

さて、昨日御子イエス様の誕生を御使いがヨセフのところに届けた際、700年ほど前に「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と呼ばれる」という約束の成就について語られていましたが、↑はその預言がさなれた時の話。

 

当時のイスラエル王国は分裂していて、北イスラエルの中の主要都市、エフライムが、イスラエルと敵対関係にあったアラムという国と同盟を組み、兄弟国である南ユダに攻め入ろうとしていたところでした。その時の南ユダの王アハズは「林の木々が風で揺らぐように動揺した」というほどです。もう、彼らに負けてしまう、そう恐れていた。

 

そんな彼らに向かって神様は、「そんなことは決して起こらない」と訴えるのですがそれでも彼らは恐れ惑います。もう状況的に、数の上でも圧倒的に不利なのは目に見えていました。そんな彼らになお神様は↑のように語りかけたのです。「しるしを求めよ」と。しかしアハズは「試みません、主を求めません」と答える。

 

このアハズが本当に神様を恐れて、恐れ多くてこういったのか、はたまた神様を今求めて何になる、現実それどころではない、と答えたのか、明確ではない。ただ、神様は「よみの深み、あるいは、上の高いところから」と、その問題から目を神様に上げるように訴えるのです。誰が共にいるのか。

 

そこで神様はクリスマスで有名な、「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」と約束された。

 

…この約束をよんだ人は恐らく、そんな馬鹿な話があるわけがないだろう、そう思う人も多いかもしれない。実はクリスチャンの中でも、イエス様がそのように生まれたという事は科学的にありえないから信じられない、という人もいる。でも現実の目に見たら信じられないと言われてもしょうがない。

 

でも、「神様が」これをなす、と宣言されたのです。神様がする、と言われたことは絶対にされます。そして、処女が身ごもって、男の子を生む、というあり得ないことをすることができる神様が「インマヌエル」=神様があなたがたと共におられる、と宣言されたのです。実にこの約束が成就するのは700年ほど先、今の私たちから見たら2000年ほど前まで先になります。しかし、その神様が「今」共におられる事を信じるか否か、受け入れるか否か、そこが大事なんです。

 

神様は、彼らとともにおられる事を選ばれた。その神様と「彼ら自身」「私たち自身が」共に生きる、信頼して生きる、そう決断することが大事なのです。神様は未来だけ働かれる神様ではない。昔も今もこれからもおられ続ける神様なのです。この神様に希望を置く時に、私たちは失望に終わる事は決してありません。ちなみに、この約束通り神様はアラムを打ち砕き、当時のエフライムの王もあっという間に倒れます。

 

そしてついに今から約2000年ほど前、おとめマリヤから男の子が生まれた。救い主イエスキリスト様。神の御子たるイエスキリスト様がお生まれになりました。はい、物理的にありえない話。科学的にありえない話。でも、これは神様が、あなたのためになされたことです。誰か遠い国の人のために約束されたことがどこかで起った、という話ではない、あなたのために神様が成就してくださったことなのです。

 

神様があなたと共にいる、その形として、いと高きところから私たち人間のところに、人となってまで下って来られた。神であられるのにそのありようを捨てられないとは考えずに人となって。あなたと共にいるために、来られた。神様はもうすでにその御手をあなたに伸ばされたのです。

 

あなたがクリスマスを物語として終わらせている限り、この約束は本当の意味で成就はしない。あなたが神様から離れていた、罪の中歩んでいたことを認め、神様の元に帰らない限り、これは本当に遠いどこかの出来事で終わってしまう。しかし、あなたが悔い改めるなら、あなたは神様の子とされ、神様が、世の終わりまであなたと共におられる。この素晴らしい特権を受けるか否かはあなた次第なのです。

 

私たちが本来支払わなければならない、罪の代償(犯罪のことだけをさすわけではないですよ?神様を神様としない、自分を神として歩む、これこそが罪です)、刑罰を受けなければならなかった。永遠の神様との断絶、死を受けなければならなかった。しかし、永遠の断絶を、永遠にあなたと共に生きるという約束に変えたのが十字架。そのために御子イエス様は来られた。十字架に架かられた。あなたを取り戻すため、あなたにいのちを得させるために。

 

今日私たちは、いと高きところから降って行き、人のところに来られ、なお十字架上で死なれ陰府に、地の深みにまで下られた、そしてよみがえられたイエス様を見上げよう。この本当のクリスマス、神様の愛を受け取ろう。その時、あなたのために命さえ捨てられたイエス様があなたの内にリアルに住まわれ、あなたの内に御心を現しながら「世の終わりまで」あなたと共におられる。インマヌエルは一時的ではない、とこしえまでも、です。あなたはこれを信じますか?そしてあなたは今日、誰と共に歩みますか?