「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」
マタイによる福音書1章18-25節
クリスマスは神様の大いなる決断と愛が私たちの内に注がれた日。でも、私たちがこれを受け取るからこの愛が私たちの内に溢れるのであって、私たちが受け取らなければ始まらない。私たちはこの神様の愛をどう考えるだろうか。
さて、↑は今から約2000年ほど前に起った歴史的事実。神の御子たるイエスキリスト様がお生まれになった次第の最初のところ。当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にありました。世界史に詳しい方なら、それがどれだけ大変な時代だったか想像もつくでしょう。その中にイエス様の育て親となるヨセフとマリヤがいました。
まあその2人にとどまらず彼らは救い主の到来をずっと待ち望んでいた。この時から約700年前、当時アッシリヤやバビロンが台頭していたときに、神様が預言者イザヤを通して、↑にもありますが「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という神様の約束を待ち望んでいたのでした。
そしてついにその時が来たのでした。神様は、御使いにマリヤとヨセフそれぞれにこの知らせを告げに行きます。それは何と驚くべき内容でした。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と。
当時のイスラエルでは婚前交渉などもっての外、石打で殺されます。婚約者。マリヤに裏切られた?そう考えてもおかしくない。聖霊様によって身ごもった?なんだそれは?私には関係ない、どうして私たちのことでそんなことがあり得るだろうか、ともしかしたら葛藤はあったかもしれない。事実、「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと」したとありますから、相当苦しんだでしょう。
しかし、ヨセフは受け入れる決断をしたのでした。私がヨセフだったらどうかな?たぶん受け入れられなかったかもしれない。それくらい彼にとっては大きな決断だった。
彼は何を受け入れたのだろう?もちろん、マリヤが聖霊様によって身ごもった、それでもマリヤと結婚する、ということを受け入れた、これもあるでしょう。でも、それ以上のことがある。それは神様のこのご計画を受け入れる事。救い主イエス様の誕生を他人事と考えずに、他の誰かでもいいじゃないか、と考えて神様の預言を打ち破るような事もしないで、ただただ神様の御心がこの身に(彼自身の内に)なる事を受け入れたのです。この言葉はマリヤの告白で有名ですが、彼の受け入れたことはまさに同じ事。私は神様のもの、ただただ神様の御心がなる事。インマヌエルなる救い主誕生を喜び受け入れたのでした。そして、生まれてきた子を間違いなく救い主であると信じたヨセフは、救い主を神様のおっしゃられた通りイエス、と名付けるのでした。
彼の中に自分の結婚生活像、人生設計などもあったでしょう、でも葛藤しながらも、神様のいのちが、ご計画こそ、必要なんだ、そう受け入れたのでした。預言を見ても、どう見ても人の手でなる事ではない、確かに神様が今、救い主を遣わそうとしている。しかも私はそのイエス様の最も近いところにいられる、その喜びがどれだけだったのか。
クリスマスの出来事は神様の私たちを愛するが故の決断と、マリヤとヨセフの信仰の決断、ここが結ばれ始まった。全世界という広い範囲でみるだけではなくとも、マリヤにもヨセフにも、本当の意味でクリスマスが起った。それは救い主イエス様がお生まれになった事によって、彼らは神様と結び合わされる。
イエス様は困難からだけ救うためじゃない、私たちの究極の苦しみ、私たちの罪(いわゆる犯罪だけじゃない、神様を神様とせず神様から離れ好き勝手に生きてきた)からの解放、裁きからの釈放、このために、御子イエス様が身代わりに十字架に架かられ死なれた。身代りに罰せられた。これによって、彼ら自身が神様の子として受け入れられ、本当の意味で彼らの内に神様の愛が完成され、家族どころか、神様の家族として加えていただいた、神様の子として受け入れられたのです。神様の御心が彼らの内に本当の意味でなったのです。
私たちはクリスマスという出来事を知っているから、イエス様が来られたから、私たちは救われたのではない。御子イエス様の十字架によって本当の意味で神様の愛が完全に現された。そしてマリヤやヨセフと同様に、私たち自身が、他のだれかではない、あなたがこの御子イエス様を救い主として受け入れる時、あなたの罪の身代わりとなって死なれ、またよみがえられた救い主として信じ受け入れる時、本当の意味で神様の愛が、あなたの身になる。マリヤやヨセフにそれぞれ神様の計画があったように、あなたにはあなたへの。
あなたは救い主イエス様を、十字架の愛を他人事として捉えるか。それとも、あなたの事として、神様の愛が、御心がこの身になりますようにと受け入れるか。あなたが受け入れる時、その瞬間からあなたは神様の子、神様の家族となる。もう罪の奴隷ではない、闇のローマ帝国、罪、サタンの手にもはや縛られる事はない、あなたの罪は御子イエス様によって赦され解放され、神様の子とされる。あなたは今日イエス様をだれと告白しますか?