ーイエス様にお会いできる喜びー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。…すると、主はモーセに仰せられた。『見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。』それからモーセは民のことばを主に告げた。主はモーセに仰せられた。『あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。それに手を触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、刺し殺される。獣でも、人でも、生かしておいてはならない。しかし雄羊の角が長く鳴り響くとき、彼らは山に登って来なければならない。』それでモーセは山から民のところに降りて来た。そして、民を聖別し、彼らに自分たちの着物を洗わせた。モーセは民に言った。『三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。』三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。」

出エジプト記195-16

 

私たちが神様の元に招かれる、これ以上に素晴らしいことはないだろう。神様「が」招き入れて下さるのだから。神様はご自身の素晴らしい恵みの世界に私たちに生きてほしいのです。私たちはこの素晴らしさを体験しているだろうか?

 

さて、↑は紀元前、かつてイスラエルの民がエジプトの奴隷として捕らえられていた時、かつて先祖たちに誓われた約束の地、乳と蜜の流れる地へと連れ昇っている途中での話。神様は、彼らと契約を結ぼう、と語りかけられた、その中のことばが↑。先日は彼らを、私たちを宝の民としてくださる、という約束を見ました。今日はその続き。

 

この神様の素晴らしい恵みをいただきたいです、と応答したところ、神様はさらに↑のように語ります。神様はモーセに「濃い雲の中で、あなたに臨む」とおっしゃりました。これは、神様のご臨在の象徴を現しています。神様を待ち望むとき、神様ご自身がイスラエルの民に、また私たちに臨まれるのです。神様は私たちを宝の民、宝、特別な存在と考えている、だから話したい、語りたい、と願っておられる、イスラエルの民、私たちが苦難の荒野、地上の生涯をどのように歩むのか、またどんなときにもともにいること、苦難の時であろうとどんな時でも共にいたい、と願っている、だから宝、愛する子どもであるイスラエルの民、また私たちが神様を求めることを望まれたのです。

 

それゆえに神様ご自身が彼らの内に望まれ語るよ、と神様はご臨在くださろうとされていたわけです。ただ、神様はモーセに不思議な事をおっしゃりました。「あなたは民のところに行って、きょうとあす、彼らをきよめ、彼らにその衣服を洗わせ、三日目までに備えさせなさい。三日目に主が、すべての民の目の前で、シナイ山に下るからである」。

 

そう、神様がお会いになるから、その準備として身をきよめるようにおっしゃったのでした。そこでモーセは神様がおっしゃられた、着物を洗う事、シナイ山に境界を設けて、その境界には絶対に手を触れないようにしました。女性との事はおそらく思いを集中するため、モーセが取り決めたことでしょう。

 

最後のモーセの女性に対する応答から少し見えてくると思うのですが、神様は境界線を引くように、とおっしゃったんです。もちろん、仙人のような生活をしろ、とか世というか周りと断絶した生活を送りなさい、と言っているわけではありませんよ?それでは一体どうやって伝道するのか?証するのか?という話になりますからね。

 

ではどういうことか。神様は聖い方ですから罪と同居することはできません。罪から悔い改めに導くメッセージは発し続けても、罪を犯しているところにおいてできないのです。罪は、物理的な罪を指すわけではありません、神様から離れていること、信頼しないこともまた罪です。神様を求めなさい、そうすれば与えられます、と、イエス様のお言葉にも、「求めれば」とその条件がついていますよね?

 

神様の祝福の契約は、↑の最初にもありますが、神様の御声に従うなら、神様の心を求めるなら、神様は語られ、また祝福される。だから、今まさに書いてあるとおり、神様がおっしゃっているように、境界線を引く、まず自分の思い、絶対に神様無理です、こんな現実にどう立ち向かう?神様なんか信じたって何にも役に立たないじゃないか、という思いから離れ、わたしの心に合わせてほしいと神様は願われているのです。聖別するように、と。

 

わたしはあなたを愛しあなたを翼に乗せ、これまで導いてきたように、これからも導くんだよ、もしかしたら痛い、辛い日があるかもしれない、でもわたしがあなたに最善の計画を持ち、また共にいるから、という御思いとともに。どうして?あなたは神様のたいせつなたから、財産ですから。

 

黙示録7章にこう約束されています。「そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです」。

 

私たちには確かに様々な現実があります。しかし、私たちがその境界線から、神様のところに踏み出すか否かなんです。イエス様は私たちの罪を十字架によって贖われ、古い私達は共に十字架に張り付けられ、もはやイエス様によって新しいものとされた、全ては新しくされた、わたしの内にイエス様が住まわれ聖霊様が働かれるものとなったのです。もうあなた一人ではない、主御自身があなたのうちに生きて働かれるのです。宝の民であるあなたをそのままにしたくない、闇のままにしたくない、その翼にのせ運びたいと願っている、あなたの現実の戦いから、神様の乳と蜜の流れる地に導きたいと、あなたに臨まれ語られ、導かれるのです。

 

それこそ「シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた」とあるように、何か不思議な御業を通してか、誰かを通してか、直接か、祈りを通してか、聖書を通してか、あなたのうちにご臨在くださり語りかけて、あなたを強め、また励まし、慰め、希望を、道のない荒れ地に道を、水のない場所に川を流されるのです。そうして真の命ある生涯を進むのです。

 

でも現実は、と思いたくなります。しかし現実問題と神様のお言葉、一見反するように思えるかもしれませんが、しかしイエス様は人の現実の世界に、人となって生まれてこられ、あなたの現実に向かって語られ、その現実と、神様との間の隔たりを戻すために十字架にかかられました。あなたをこの恵みの中に招き入れるために、あのクリスマスの時店より降って来られ、死刑囚にまで下られ、十字架に架かられ死なれ、陰府に降ってまであなたを引き上げるために。神様の最高の宝、子とするために。

 

今日、どうぞ神様への不安の思いから境界線を引いて一歩踏み出し、神様、どうぞあなたの御心をわたしの内に教えてください、語りかけてください、と願おうではありませんか。主はあなたのために必要をすべて備えられる。モーセ一人ではなくイスラエルの民も共に救われ、互いに支えあったように、あなたにも。今日もう一度神様にこの思いを委ね、主の言葉を待ち望み、またその与えられたことば、導きに信頼しながら、主の御国に行くその日まで神様の真の命のうちを歩もうではありませんか。