「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。それゆえ、産婦が子を産む時まで、彼らはそのままにしておかれる。彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰るようになる。彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。」
ミカ書5章2-4節
神様がする、と決められたことは必ずなる。私たちの時計どおりではないかもしれない。でも神様は完全な計画を持っておられる。その計画の途上にあっても神様は私たちを見捨てられない。私たちは完全なる神様の愛、その中に生かされている、そのことを覚えよう。
さて、↑は預言者ミカという人を通して、救い主イエス様の誕生の預言がなされたものです。この預言がされたのは紀元前735年~700年くらいの間です(記されている王の名前などから)。当時北イスラエルはアッシリヤの危機にさらされ、もうまさに崩壊を迎えつつあり、そして紀元前722年に捕囚されていきます。そして南ユダにもアッシリヤの手が迫っていた、そんな状況で↑の預言がなされるのでした。
それは、預言者が必ず誕生する、と。しかも本当に小さな町、ベツレヘムというところで。救い主が、あなたがたを治める真の王が現れる、と。だから、今ひと時苦しみの時にあるかもしれない、しかし、待ち望め、と。
神様の計画、愛は一時のものではありません。思いつきで助けてやるか~的な感じで動かれる方ではありません。神様の愛は、あなたへの愛は、何よりも深いその愛は空よりも深く、大きな愛。そんなレベルのものではないのです。↑にあるように、「昔から、永遠の昔からの定め」なのです。
何のために救い主が与えられるのか?誕生されるのか。それは、私たちが、神様から離れ神様を捨て、好き勝手に生き神様を神様とせず生きるこの大きな罪によって断絶されてしまった。この関係を和解させてくださるための、この罪を打ち消し、死に勝利され、サタンを打ち砕くため、それは、なんと全人類の最初、アダムとエヴァが罪を犯したその直後からもう約束されていたのです。もうずっと昔からあなたを思っていた。大切な彼らが、あなたが失われゆくのが我慢できない故に。
そうなんです。↑の預言を見ても分かる通り、神様は救い主を送るよ~で終わりではなかったのです。永遠の昔からの定めは、ただ救い主を送って終わり、ではないのです。私たちを治める救い主は、私たちを力づけ、養われ、安らかに住まう。しかも、その威光が全地に渡る、あなたの内にも現されるのです。ただ世の中の王として来られるわけではなく、私たちを罪の縄目、くびきから解放し、打ち砕くべく、救い主として来られたイエス様はその愛を現しながら、なお、私たちと神様の断絶から解き放つべく、私たちの罪の代価・死をその身に負われ、身代わりに罰せられ死なれるために来られたのです。
そうして私たちが神様に変える時、私たちは神様と和解させていただく、そのことによって、私たちは神様の子とされ、↑の約束がまさに、あなたの身になるのです。本当の解放、それはサタンの支配からの解放、死の、裁きの縄目からの解放。そして神様のいのちの内に、招き入れられる、そこにあるのです。
あなたは、もしかしたら↑の「小さい」と言われるエフラテのようなものかもしれない。いや、神様の目から見たら、罪人の私たちのところに救い主が来るなどあり得ない話。しかし、神様の愛はあなたがとらわれ人であり続ける事が我慢できないのです。歴史上では北イスラエルはアッシリヤに、南ユダはバビロンに捕囚されていきますが、あなたはこのサタンの手から、罪の奴隷から解放される。神様の子とされるのです。
この預言の成就は実際は700年以上も先の話でした。しかし、少なからずこの預言を聴いた南ユダは神様のこの愛を受け入れ神様に立ち帰り、その立ち帰った間約100年間は守られていった。彼らは何を待ち望んだのか?もちろん救い主の誕生です。でもそれ以上に、永遠の昔から定められる計画、愛を持っておられる神様に委ねる、その神様のご支配を願った。ご統治を願ったのです。神様の威光がこの地に現されることを。それほどの計画を持っておられる神様に信頼しよう、と。
もちろんこのメシヤ・救い主誕生の預言は人々を支え続けましたが。実際に、捕囚にあった先にあっても神様は神様を求める民を見捨てず、彼らの内に助け人を多く送られ、守られ導かれていった。そして、今から約2000年ほど前救い主が誕生し、イエス様の十字架にあって↑の預言が成就された。神様は約束を果たされる。絶対に。その愛ゆえに。その約束はあなたにいのちを得させ神様の愛のうちに生きその恵みを注がれること。その願いは昔も今も変わっていない。神様があなたを神様のそれ程の、御子イエス様を十字架に身代りにかけてまで死なせるほどに愛される方の愛のうちに、その御力の内に養われ、安らかに「住まわせていただ」けるのです。
さて。私たちはこの預言が成就したことを知っている。クリスマスの出来事。十字架による救いの完成。ただ、この先あなたはどうするだろうか?永遠の昔からあなたを愛し、あなたのためにこの預言を、御子イエス様を人となって送られただけで終わらせず、そのいのちを私たちの身代わりに十字架に架け死なせてまで果たされた神様の愛にどう応えるだろうか。私たちはこの神様があなたの内に果たされ「ている」、今もあなたのうちに生きて働かれている事、あなたの内にその愛を現し続けている事を信じるだろうか?この神様があなたの内に成そうとしている愛をもはやどうして疑うことができるだろう?救い主誕生までの間も神様はその愛を注がれ続けたように、あなたを救って神様は終わりではない、あなたの内に底から神様との新しいあなたが始まるのです。
今日、あなたはどう応答しますか?何を待ち望みますか?誰を待ち望みますか?今日神様の前に悔い改め立ち帰り、このいのちをいただき、神様と共に歩み続けよう。クリスマスは誰のためでもない、あなたのためです。
