ー世界最古の賛美ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「そこで、モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。彼らは言った。『主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主。…あなたが風を吹かせられると、海は彼らを包んでしまった。彼らは大いなる水の中に鉛のように沈んだ。主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行なうことができましょうか。あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らをのみこんだ。あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。国々の民は聞いて震え、もだえがペリシテの住民を捕らえた。そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者らは、震え上がり、カナンの住民は、みな震えおののく。恐れとおののきが彼らを襲い、あなたの偉大な御腕により、彼らが石のように黙りますように。主よ。あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られたこの民が通り過ぎるまで。あなたは彼らを連れて行き、あなたご自身の山に植えられる。主よ。御住まいのためにあなたがお造りになった場所に。主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。主はとこしえまでも統べ治められる。』」

出エジプト記151-18

 

神様は、とこしえに変わらない神様。神様は羊飼いの心を持つ神様。あなたと共に進まれる。あなたのためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与える神様が。

 

さて、↑の詩は世界最古の賛美と呼ばれるものです。本当なら全文を載せたいのですが、あまりに長くなるので、もし興味がある方は聖書を開いてみるか、ネットで出エジプト記15章とでも検索すれば読めると思うので読んでみてくださいね。

 

この歌が歌われたのはどんな状況でかというと。かつてアブラハムの息子、イサクの息子、ヤコブの一族がエジプトに飢饉のため非難し数百年が経ち、奴隷に陥り、苦しみの中にありました。私たちでいうなら罪の奴隷の中、希望が見いだせずにいた、その中神様が彼らの声を聴かれ、モーセをリーダーに建て、あらゆる奇跡をもってイスラエルの民を救い出し、紅海の海を割って渡り切り、もはや彼らを追いかける、苦しめるエジプト軍は全て海の中に沈みました。その直後にこの歌を歌ったのでした(…の中はそんな感じの内容です)。

 

そういうわけで彼ら・モーセとイスラエルの民はまず、「神様が」今彼らを救い出された、これは自分たちの力ではない、↑にあるように「主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主」と告白するのです。彼らは今、この神様が共にいる事を、これから一緒に導いて下さる事を、喜び踊りながらうたったのです。

 

彼らのこの告白は非常に大きい。彼らは現段階ではですが(後に逆らい続けるので)、この神様は一度だけ働かれる神様、救って終わりの神様ではない、と告白するわけです。これからも共にいてくださる、と。そういう意味で彼らはまだ起こってもいない事実(…より先の部分)をさも起ったかのように告白する中で、彼らは確信していくわけです。この神様が一緒なら必ずそうなる、と。

 

そう、これは事実なんです。神様はご自身の民を、子を愛さずにはいられない、見捨てる事など捨て置く事などできない。共に歩まれ導かれる、でもそれを私たちが忘れ、その素晴らしさを疑い、私たちが勝手に離れ、死の道を進むだけで神様の愛は変わらないのです。

 

じゃあ神様はどのように、何のために彼らを、私たちを導かれるのか。神様の導き、それは聖書全体を見てみますと、神様の子どもに与えられた特権であり、実り多い生涯を送れるようにと神が愛のうちに備えてくださるものです。詩篇という詩集の中には、「主は、…御名のために、私を義の道に導かれます」と歌われています。そう、神様は私たちを、その御名のゆえに、イエス様の十字架ゆえに、あなたを神様の家族に迎え入れた故に、強い責任を持って導かれます。

 

しかし導くといっても孤独ではありません。神様が共にいて私たちを伴われるのです。伴うという言葉は羊飼いが羊を飼う飼育用語です。ですから羊飼いとして神様は羊飼いとして羊を追い立てることなく、ゆっくりと、羊の歩みに合わせながら、優しく導かれるのです。時には休みを与えながら、彼らを養っていくのです。そして神様がイスラエルの民を伴っていかれたようにイエス様は私たちの羊飼いとして私たちを導かれるのです。

 

同時に、イスラエルの民を、また私たちを導くのには神様の目的があります。それは連れて行き、植えるということです。連れて行くというのは、「入る、連れて入る、連れて行く、来させる」という意味で、そこには“神様が”明確な目的をもって連れて行くのです。それは「神の住まわれる場所に」です。神様のいる場所、いこいのほとりに。そしてそこに私たちを植える、神様とのかかわりを根付かせるのです。神様とのかかわりを神様が根付かせてくださるのです。

 

要するに神様は、あのアダムとエヴァとエデンの園で暮らしていたようなあのころのように、家族のように共に住みたい、と願っておられるのです。なぜイスラエルの民が救い出されたのか、なぜイエス様は神の御子であられるのに、何の罪もないのに、私たちの罪を身代りに背負われ十字架に架かられ死なれてまで私たちを買い戻されたのか?それは神様の聖所に私たちが住まい、神様も一緒に住まう、そのためなのです。ここに神様は招かれているのです。

 

私たちが神様の家族に入れられる。何という恵みでしょう。そのために神様が今日まであなたに何をされてきたか、またイエス様の十字架を思い出しましょう。それ程の思いをもって私たち、あなたを愛し、救い出されたのです。私たちは、私たちを、あなたを神様の家族に入れて義の道に導かないことがありましょうか。すべ治める神様があなたの道をまっすぐにされ、羊飼いとしてあなたの生涯を導かれ、共に住まわれるのです。

 

彼らは残念ながら、この時は覚えていましたが、この事実を忘れ自分たちを導いた神様が何者なのか、どんな目的を持っておられるのか、それを忘れてしまい、神様に逆らい、多くの民が滅びて行った。せっかく神様が救い、義の道に導かれ、今そこに住まわれながら毎日養ってくださっているのに、自分の満足・求めると頃とは違う、と。でも神様の用意されている恵みをどうしてこの世の秤で測る事などできましょうか。十字架によって結ばれた、和解された神様との関係を引き離すことができる者は何者もない。

 

私たちはこのイエス様の恵みを、十字架の恵みを思い出し、心に刻み、またそれだけではなく日々、祈りまた御言葉に聞き養われながら、この神様から離れず歩もうではありませんか。私たちも神様あなたと共に歩みたいです、と霊的な聖所・神様の住まいをあなたの内に建て上げ・もうけようではありませんか。神様はその思いにこたえ、あなたの中に住まわれ、導かれるから。あの海を割られ、死を打ち砕き、我らを追い詰める者たちを追い払い、新しい道を開かれる神様に期待して。