ー永遠の昔からの計画ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ―私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。それは、偽ることのない神が、永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことです。神は、ご自分の定められた時に、このみことばを宣教によって明らかにされました。私は、この宣教を私たちの救い主なる神の命令によって、ゆだねられたのです―このパウロから、同じ信仰による真実のわが子テトスへ。父なる神および私たちの救い主なるキリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。」

テトスへの手紙11-4

 

神様は、私たちを永遠の昔より計画しておられる。ちょっと壮大すぎると思う方は、自分が産まれるよりも前から、と言ったら身近に感じるでしょうかね?あなたという存在に対して、それ程に思いを持っておられる。真の恵みと平安があなたの内にあることを何より願って。

 

さて、↑の文面は、初代キリスト教会(1世紀)に、パウロというキリスト教伝道者がテトスという人に充てて書いた手紙の冒頭のあいさつの部分です。しかし、このわずかな短いあいさつの中に、神様がどれだけパウロを愛しているのか、私たちを愛しているのかがよく分かります。

 

私も今日読み返すまで、あまり気にも留めてはいなかったのですが、実に本当に大事な事が書かれている。これ、パウロの自己紹介のようになっていますけど、パウロだけの話ではないんです。あなたという存在がどれだけ神様に大切にされているのか、その事もこの中に訴えられているのです。手紙のあいさつに入れてまで知ってほしい大事な事が。

 

と、話は戻して、この手紙の筆者であるパウロという人は、私は↑でキリスト教の伝道者と書きましたが、その前はキリスト教徒への迫害者でした。初代教会の有能な若者の死刑にかかわり、さらに多くのキリスト教徒をとらえ殺したい、と願っていた。彼は神という存在を知っていた、でも彼は神を愛しているつもりで神の愛など全く知らなかった。ただの宗教家。行いによって神様を喜ばせているつもりで、全然神様を見ていなかったし、愛もなかった(こんな事を書く資格など私にはないほど私も愛がありませんが)。

 

しかも、こともあろうにその自分の信じている神様が救い主として送られたイエス様を、神を冒涜する人間として見、そんな男を信じるキリスト教徒を敵対視する、そうその信じている神様に敵対していたのです。本人には自覚はなかったんですが。そんな彼をどうして神様は救う価値があったと思います?どこかの宗教家なら、手にかけるでしょう。

 

ところが、驚くべき事に神様は、彼を赦す選択をされた。なんと復活のイエス様が彼の前に現れ、彼を悔い改めに導き、罰するどころか、彼の罪をもイエス様が十字架に背負い、死なれたことによってもうすでに支払い済みだ、と彼を赦し受け入れたのです。

 

神様の愛は行き当たりばったりの愛ではない。神様は↑にあるように、永遠の昔から彼に対して計画を持っておられた。召し使いにするため?使徒とするため?いやもちろんそれも一部。でも何より神様は彼の生涯を永遠の昔、もっと身近に言うなら彼が産まれるよりも前から計画しておられた。彼を愛し、丹精込めて造られた。愛する我が子として。だから、それ程に彼に対して思いが強いゆえに、彼が神様がせっかく愛しているのにそこから離れた悲しい道に、死の道に進むことが我慢できなかった。だから憐みを示されたのです。彼は迫害者だから赦さん!ではなく、彼も愛する子ゆえに、彼の罪もイエス様の十字架で支払い済みとしよう、と。そして、この和解された神様との関係においてこそ、私たちは本当の恵みと平安を得る。いや、神様が与えて下さるのです。

 

「神は、ご自分の定められた時に、このみことばを宣教によって明らかにされました」といいますが、彼は他人事のように言っているのではない、まさに自分の元にも、こんな神を知っているようで知らずに、かえって神様を迫害していた自分のところにこの救いを届けてくださった、その神様の愛に彼は心打たれたのです。だからこの手紙にその愛を託した。知ってほしい、と。そして彼の周りにいる人たちにも。

 

これほどの愛によって彼は、私たちは生かされているそういう存在なのです。神のしもべ、死と、云々の前に、神様によってその愛を受けた、その御子イエス様の十字架、そのいのちによって買い戻され手まであなたに対して神様は関心を持たれ、また計画を持っておられるのです。

 

あなたという存在はあなたが生まれる前から神様の御旨、御心を込めて造られた。永遠の昔から。ずっとずっと昔からどういうあなたにしようか、と。どんな愛を注ごうか、と。それほど愛するがゆえに神様はあなたを見捨てられないから、あなたが滅びに向かわないように、救いの御手を伸ばされた。パウロに出会われたように、あなたにも。

 

聖書も、イエス様も、架空の出来事でも、昔話でも、誰か特定の人に向けられたものでもない、あなたという大切な存在に向けられたラブレターなのです。命がけの。あなたが救いを得、神様の恵みによって、その愛によって行き、まことの恵みと平安を得られるように。しかもイエス様があなたの内に住まわれ死して後天の御国に行くその日まで導かれる。

 

最後、これを受け取るかどうかはあなた次第。パウロもこの手紙を送られた人たちも、この福音を、救いを信じるか、信じず受け取らないで滅びの道に向かうかはあなたの最後の決断。今という時に神様の恵みの中に生きるかどうか、信じるかどうかもあなたの決断次第。すでにこの愛はあなたに向けられている。

 

この手紙は、イエス様のいのちはもうすでに、あなたのところに届いています。あなたは今日この永遠の昔からの神様の愛の計画を信じるだろうか?受け取るだろうか?そしてこれを受け取った今どう生きるだろうか?