「そこで主は仰せられた。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。』その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。アブラハムは近づいて申し上げた。『あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。』主は答えられた。『もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。』…『主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。』すると主は仰せられた。『滅ぼすまい。その十人のために。』主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。」
創世記18章20-33節
イエス様は究極の執り成し手、私たちの救いのために自らのいのちを差し出された。十字架の上で。神の御子で何も罪がないのにもかかわらず。これが神様の愛。
さて、↑の会話は、神様の御使い(この中に受肉前・人となってお生まれになる前のイエス様もいた)と信仰の父祖と言われるアブラハムという一人のイスラエル人のやり取りです。私はこの必死の懇願を思った時にイエス様の懇願を思ったのです。
最初のその御使いのことばにもあるように、実はソドムとゴモラの町のあまりの罪のひどさに滅ぼすため、御使いはこの地上に来られたわけです。でも、考えてみるとですよ、最初からただ容赦なく全員滅ぼすことだけが目的だったなら最初から言って滅ぼすなり、上からどどんと裁けば(ノアの洪水みたいに?)、アブラハムの説得に煩わされる事もないだろうしなぜ?と思うわけです。
しかし、いつも書いていますが、神様は憐み深い神様なのです。裁きと救いはセット。愛であり義である神様は罪を放置することはできない。単純な話、子どもを育てるのにだって、子どもが悪いこと、危険な事、命にかかわることをしていて止めないのは愛ですか?犯罪を放置してそれって本当に正しいことなの?ということ。でも同時に神様は救いの道、機会をいつも示されていたんです。いるんです。
そうしてアブラハムは御使いに懇願するのです。省略しましたが、しつこいくらいに食い下がるのです。もし50人、45人、30人、20人、10人と正しい人がいるなら、どうか裁かず、悔い改めるのを待っていただけないだろうか?と。その懇願に御使いも応え、まあ最初からアブラハムと話て彼に執成し手となってほしかったというのもありますが、いきなり滅ぼす前に、町に行って本当に正しい人が10人でもいないか、見に行かれ、その機会を持たれたのでした。
しつこい、いつまでそんなことを言っているんだ?と切り捨てる事はしなかった。いつまでも逆らい続ける私たちをいきなり切り捨て、もう黙れ、我慢できない、とその救いの窓を閉める事をされなかった。
そういえばイエス様も、いつまでも実のならない木を、もう切り倒してください、と言われる農夫に、そのしもべがあと一年あと一年待ってください、それでも実がならなければ、止まってください、と懇願したたとえ話をされましたが、神様は私たちが悔い改めるのを待たれる神様なのです。愛する子ゆえに、私たちが滅びの道に進むことを我慢できないし、何より愛する子には最善のものを与えたいように、その豊かな恵みを、最善のものを与えたい、神様の御心をあなたの内に現したいのです。
しかし、残念ながらソドムとゴモラの町に、わずか10人さえ、彼らのためにまとう、と思える人間はいなかった。アブラハムの甥のロトとその娘二人だけ(妻はやっぱり元の方が良いと戻り滅びた)だった、救われたのは。本当に残念な話。神様がご自身の元に引き戻す機会を、直接下って行き示されたのに。神様は捜しに来られた。ロトと娘たちは別に完璧な人間ではなかったけど、ただ言えるのは神様を求めた、そこが大きな違いだった。
私たちは彼らほどの罪はない、と思うかもしれない。でも、神様から離れ、神様を神様とせず自分を神として歩んでいるなら、神様から離れ罪の中にいるなら、私たちもやがて同じように裁きの時が来る。本来は。
しかし、彼らに悔い改めの機会を、それこそ造り主としての愛をもって示され、ご自身の元に引き戻そうとされたように、神様は私たちがそのまま滅びゆくことを我慢できなかった。私たちが神様から離れ、サタンの手に、罪に縛られ、神様から本来受けられるべき恵みを受けられないでいることを良しとできなかった。
だから、もうこんな罪人など知らん、もう我慢の限界だ、と滅ぼす前に、御子イエス様を遣わされた。かの時とは違い、直接人の姿を取られ、人として生き。そしてソドムとゴモラが支払った罪の大小を、イエス様自らが身代わりに負われた。「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです」と、究極の懇願をその十字架上でされたのです。どうかまってほしい、この十字架で彼らの罪を負いますから、これを見て、神様の愛を知り、悔い改め、あなたの元に立ち返るのを待ってください、と懇願されたのです。そのいのちをもって。裁きを待ってください、と。そしてロトたちが救い出されたように、神様の子へと私たちはイエス様を救い主として信じ受け入れる時、変えられるのです。受け入れられるのです。
神様が御子イエス様のいのちを差し出してまで願われる事は、あなたがいのちを得る事。永遠のいのちを、罪の赦しをいただき神様と和解させていただき、神様の栄光が、御心が、イエス様があなたの内に住まわれあなたの内に現されていくこと。あなたが生きるなら、と示された神様の愛。あなたはこれをどう受け取るだろうか?この愛を知った今、今日からあなたはどう生きるだろうか?今日主に大いに期待し、歩み始めよう。あなたを生かされるのは、あなたのためにならといのちを差し出し執成されたイエス様。さあ、今日主に信頼し歩もう。
