「ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、『神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ』と言った。そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、言った。『皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。』こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。」
使徒の働き14章8-18節
神様は憐み深い神様です。天地万物を造られた神様は造りっぱなしで終わらずに、その被造物である私たちを思い、また憐まれる。この事は忘れてはいけない。
さて、↑の出来事は紀元後。イエスキリスト様が十字架にかかり死なれ、三日目によみがえり、しばし後天に昇られた後、キリスト教徒(イエス様を救い主として信じた人たち)も増え、また教会も広がって行った頃。パウロとバルナバという人がルステラ、今でいうならトルコに到着しました。その町を歩いていると、一人の生まれつき足が萎えていて歩けない男性を見て、パウロは彼をいやすのでした。いや、正確にはパウロを通して神様が癒された、と言った方が正しいか。
ふ~ん、すごいね、で終わりそうなこの出来事。でも実はこの話はここで終わらない。こんなすごいことをするのは神に他ならない、と、そのルステラの人々は、彼らを神として崇めはじめるのでした。
ちなみにちょっと調べてみたのですが、神話に、昔彼らの信じるゼウスとヘルメスがルステラの町に来た時、そのとき彼らを歓迎したのはピレモンとバギウスの老夫婦だけだった、とあり、だから再び神々が来られるときには町をあげて歓迎しなければならないという事を考えていたそうです。それで彼らを大慌てで歓迎したようで。
でも、パウロもバルナバも神ではない。彼らが癒しの能力があった?それも違う。神様が彼らを通して癒されたのであって、彼ら自身には人を癒す力はない(癒しにしても奇跡にしても、あくまで主体者は神様であって人間によるのではないということを忘れてはいけない)。だから、彼らは自分たちがいやしたんだ、すごいだろ?とは決して誇らず、すぐにこれをされたのは神様なのだ、と切り返します。
私たちもこの視点を忘れてはいけない。神様が、その憐みを注がれるから、そこにいのちが溢れる。暗闇は光に変えられる。死はいのちに変えられる。どの神様?想像上の偽神でも神話の偽神でも、偉人でも、思想でもなんでもない、パウロが語るように、「天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神」様が、憐れまれ、そこにいのちを注がれたからこそ、注がれるからこそ、そこは生きるのです。
彼らは偽神の神話により頼んでいた。しかし、私たちを生かすのはそんな不確実な神話ではない、天地万物を造られた神様なのです。まことの神様はイエス様を人としてルステラどころか、全世界に救いをもたらすべく生まれてこられた。神としての姿ではなく、弱き人の姿を取って。罪を犯すこと以外全く人間と同じになって。人間たち、私たち、私、あなたの罪によって神様と断絶されてしまった、その壁を打ち破ってまでこられた。「恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがた・あなたの心を満た」すために。
私たちの思い煩い、重荷、病、痛み、何より私たちの抱える罪を身代りに背負い十字架で身代りに罰せられ、身代わりに死なれる事で。私たちの足かせとなる裁き罪人のレッテルを剥がし、神様の子とされ、立ち上がらせてくださるのです。あなたが、↑の足の萎えた男性のようにイエス様が必要です、と罪を認め悔い改める時、神様のわざが、あわれみが、愛があなたの内に溢れ新しいあなたとして立ち上がる時が来るのです。この十字架による贖い、憐れみ、愛ゆえに、私たちは神様にあって真のいのちを受けるのです。本来のあるべき姿、かの男性が立ち上がり歩いていったように、私たちは罪の奴隷というどん底から、神様の子へと引き上げられる。
そのために支払われた代価、御子イエス様のいのちを思う時、どうしてこれを受けずにいられましょう?この神様があなたの内に住まわれ、生きて働かれていくなら、どうして恐れる必要がありましょう?主があなたを立たせ、主があなたを導き歩かせてくださる。義の道を。
私たちは人を見るのではなく、この救い主なるイエス様を見上げ、自分に支払われた代価、御子イエス様のいのちというその代価、愛を忘れず歩もう。あなたが頼るべきは神話でも偉人でも、思想でもなんでもない。天地万物を造られ、あなたのために御子イエスさまさえ惜しまず与えられた神様。この事を今日も覚え、主と共歩もうではありませんか。
