「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」
ルカによる福音書15章8-10節
神様にとってはあなたが欠けるほど悲しい話はない。キリストの花嫁として欠けてほしくないからこそ、あなたを探しに来られた。私たちがこの素晴らしい恵みに与っている事を忘れていないだろうか?
さて↑のたとえ話は、神の御子イエス様が人となってお生まれになって(イエス様は天地創造の前から存在していたのですが、人という姿を取られてお生まれになられた、という意味)、神様の愛を惜しむことなく注がれていったある日の出来事。
ある日イエス様は罪人と一緒に食事をされていました。これは、当時のユダヤ社会ではありえない話。食事に招くという事はその人を赦し受け入れ仲間とする意味を持っていますが、神の御子と言っているイエスなる方がなぜ彼らと食事をされるんだ!?そうイエス様に問うた、その中でイエス様は3つのたとえ話をして答えて行かれるのですが、↑はその2番目。3つもとに共通するのは失われた大切な存在を探す、というものなのですが、↑のは銀貨。
別に10枚もあるんだし、1枚くらいいいじゃん、なんでそんなに喜ぶの?と思う人がいるかもしれませんが、実はこの10枚の銀貨というのはセットで1つなのです。花嫁が結婚式の際、自分の首に付ける首飾り。1つでも欠けるわけにはいかないわけです。もうちょっとだけ補足すると、どうも嫁ぎ先の家が傾く時(経済的に)、その銀かを使って助けるらしいですが。
イエス様にとっては、罪人1人欠ける事は悲しいこと。聖書の中の凄く有名な箇所にこんな御言葉があります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と。
そう、神様の願いとしては願わくば「一人として滅びる事」を望まれない。だって、私たち一人一人は神様によって大切に造られた存在。だからそんな私たちが滅びる事など悲しくて仕方がない、神様から離れたところで、神様が用意されている最高の恵みを受けられず、滅びゆく事など。
話を戻して、花嫁。ふと私がこの箇所を読んでいて思ったのは、私たちは死して後、やがて来る新しい天と地において、キリストの花嫁として招かれる、ということです。だから、10枚の内の1枚どころではない、そこに参列する一人一人の中に、たった一人の人がいない、欠けている、ということは、↑の有名な箇所と合わせてもあり得ない話なのです。
あなたという人が天の御国で欠けている、そんなことがないよう、神様は私たちを探しに来られた。悲しみ絶望の中にいる人を、何より、神様から離れ罪の中に歩み、神様の恵みを、祝福を、神様の愛そのものを本当は頂いて命あるあなたとなるはずが、それらを受けずにサタンの手に縛られている事を、罪に縛られている事を我慢できない。
だからこそ、御子イエス様をお与えになった。ただ送られただけではない。全ての人の重荷も罪も何もかも背負われ、身代わりに十字架で罰せられ、死なれた。あなたという人が欠けるくらいなら、罪の報酬、死によって失われかけるくらいなら、私がその刑罰をこの身に背負おう、と決断され、十字架に進まれた。途中でいくらでも、罪人、私たちを見捨てる事などできた。裏切ることも知っているし、こんな自分勝手に生きる私たちを、神様を神とも思わず自分を神にしたり、自分の操り人形程度にしか見ない私たちなど見捨ててもよかったはず。
しかしそれを最後までせず、十字架で死なれ、死にまで従われ、陰府に降られた。完全に死んだ。そのはずが、御子イエス様の復活によって、私たちも死で終わらず、同じ復活の恵みに与り、神様と和解させていただき、神様の子として加えて下さるのです。ただ、私たちが自分の罪を・神様から離れ神様を神様とせず好き勝手に生きているこの罪を悔い改め、イエス様を救い主として信じ受け入れる時、あなたはもう神様の家族・子とされるのです。しかし、最後まで悔い改めなければ待つのは永遠の死と裁き。しかしその恐ろしいところに降らないように身代わりとしてイエス様は十字架上で神様に罰せられたのです。
そこまでされる神様の愛をあなたはどう思うだろうか。あなたは神様の目からは欠けては欲しくない存在。そのことを忘れてはいないだろうか?そこまでしてまであなたをキリストの花嫁として招かれている。神様の子として招かれているのです。このイエス様が、あなたの内に住まわれ、花嫁として迎えるその日まであなたの内に住まわれあなたを導かれ、ご自身の御心を現してくださる。
今日、私たちはこの救いをいただこう。そして、神様の愛を覚え、イエス様に信頼し歩もうではありませんか。だってあなたは神様にとってはかけがえのない、欠けてほしくない大切な存在なのだから。この神様の最大のアイたる十字架の前にひざまずき、ここからイエス様と共に新しいいのちの内を歩もうではありませんか。
