ーたったこれだけでいいー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「…こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。エリシャは、彼に使いをやって、言った。『ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。』しかしナアマンは怒って去り、そして言った。『何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。』こうして、彼は怒って帰途についた。そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。『わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。』そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。…」

Ⅱ列王記51-19

 

多くの人は神など信じたって何になる?と思う。しかし、神様を信じる・ただそれだけで私たちは罪の奴隷から聖められ、神様と和解し、新しいもの・神の子とされる。それがどれほどすごいことかわかるだろうか?

 

さて、↑の話は紀元前の話。イスラエル王国が南北に分裂し、今、アラムという大国が北イスラエルに迫っている中での出来事。そんなイスラエルの敵国であるアラムの将軍、彼はとても国で敬われていたのですが、ツァラアトという重い皮膚病に晒され、苦しんでいました。今のように医療技術も発展しているわけでもなく、治療方法はない、周りには将軍として認められていても、そのような目で見られてしまう。

 

そんな時、イスラエルから捕虜で連れてこられた少女?女性が主君のナアマンに、イスラエルにナアマンをいやせる預言者がいる、と言われ、さっそくイスラエルに向かいます。しかし、イスラエルの当時の王はそんなもの、神でもない私が癒せるか!と衣を引き裂いた(最上級の悲しみなどを現す行為)、それを見た預言者がナアマンを招いた、そこから↑のやり取りが始まります。

 

ナアマンからしたら国の英雄クラス、さぞ歓待されて招かれ、最高級の医療を提供される、不思議な奇跡でもしてもらえるのかと思ったら、なんと顔を見せて歓迎しないだけではなく、ただヨルダン川という川に7度身を浸して身を洗うように、ということ。そこでナアマンは怒り心頭。それだったら自分の国で神聖な場所とされている川で洗った方がまだましではないか、そう答えるわけです。そうして諦めて帰ろうとしたところ、彼の従者が諭すと、ナアマンはしぶしぶ実行します。1度やってはきれいにならず、2度、3度、…そして7度。ついに彼は癒された。

 

預言者エリシャが言った事はいたってシンプルで難しい話ではなかった。ヨルダン川だって確かに様々な奇跡があったところですが、じゃあ他の人が同じようにヨルダン川で同じように身を浸したら病が治るか?と言われたら、Noだと思います。エリシャが、いや神様がエリシャを通してナアマンに何をしたかったのか?それはただ病をいやすことに非ず、彼が神様の前に悔い改め、神様の子として回復する事、そこにあったのです。その意思が現れ、彼は癒されたのです。ヨルダン川が癒したのではない、神様がナアマンを癒したのです。

 

信じられますか?だってイスラエルの神が、イスラエルの敵国であるアラムの、しかも英雄・将軍を救おうと思ったんですよ?しかし、真の神様の恵みを知らず、生きもしない偽の神に仕え生き、空しい中を歩む彼を見捨てなどできなかった。だから、このツァラアトという重い皮膚病を癒すことを通して神様は彼をご自身の元に引き寄せられたのです。もちろん最後の決断は彼に委ねられていたのですが。

 

ちなみに彼はこの後、癒されたからもういいや~となったのではなく、自分の国に帰ってもわたしは真の神様の恵みの中を歩みたい、と決断します(分かりやすく言うと)。偽の神々、暗闇、そうした中に帰ってもわたしは神様に信頼して歩みます、と。神様は彼の病を癒したのではなく、罪人としての、神様との断絶された関係を癒されたのでした。それはただ神様を信じ信頼するだけ、神様のそのご愛に対して。ツァラアトはコミュニティとの断絶を招きます。が、その断絶を癒し和解されたのです、神様との断絶を(まあ完全にではないですが)。彼を神様が生かし、新しいものとしたのです。

 

さて、それでも私たちだったら、どうしてそんな敵を癒すようなまねを!と思うところ。でも、私たちだって神様の目から見たら同じなんです。イスラエルの敵国アラムに対して私たちが思い描くイメージは、神様に敵対し離れ、好き勝手に生きる私たちなど、神様から見たら敵!と言われて見捨てられても仕方がない。でも、神様はかのナアマンを憐れまれたように、私たちを持神様は憐れまれるのです。

 

だから、少女を通して神様の存在を知り、エリシャを通してナアマンをご自身の元に引き寄せたように、私たちをそのどうにもならないツァラアト、どん底、神様との断絶状態から命も恵みも受けられないような私たちを救い出すべく、神の御子たるイエス様を通して神様は私たちを癒されようとされたのです。私たちが負わなければならない刑罰、罪の代価を身代りに背負われ十字架に架かられ、死なれ、なおよみがえられたことによって、私たちの罪を、神様との断絶という最大の病を癒されたのです。

 

神様は、あなたの人生のある一部を癒したいのではない。神様は、あなたを丸ごと癒されたいのです。罪に苦しみ、悲しむあなたを、あなたの重荷も全部丸ごと。私たちがこの罪の赦し、癒しを受けるための条件は難しいことではない。ただ、神の御子イエス様を「自分の罪のため」身代りに死なれ、またよみがえられた救い主として信じ受け入れる、ただそれだけなのです。その時、もうあなたの罪の罪状は取り下げられ、和解し、神様の子とされるのです。神様との関係が癒されるのです。

 

神様は愛するあなたのために御子イエスさまさえ惜しまず死なせる方、それほど愛するあなたに神様は最大の恵みをいつでも備えられている。私たちは神様と和解される時、この恵みを受けるのです。あなたのためにご自分のいのちさえ惜しまず与え、死ぬ事だってされるイエス様があなたの内に生きて働かれ、あなたは新しいあなたとなるのです。

 

神様があなたの内に生きる、この時に起こる劇的な変化は、「人の目から見たら」たったそれだけのこと?ということに見えるかもしれない。しかし神様があなたの内にご自身の愛を、御心を現されるなら一体それがどれほどのものかわかるでしょうか?あなたは罪人から神の子へと引き上げられ、この最大の恵みを受けている、なんと素晴らしいことだろう。神様の恵みの中に生きる時、私たちは目に見えない部分、目に見える部分、「神様が」劇的に変えて下さるのです。もう罪も世も、悲しみも、病も、あらゆる重荷もあなたを支配することはできない、神様の愛があなたを覆うのです。

 

あなたは、神様を信じる事を、「たったそれだけのことを信じたって私に何になる?」と思うだろうか?それとも?それともたったそれだけのこと、御子イエス様を救い主として受け入れ、この恵みの中に歩むか。敵国ナアマンを憐れまれた神様の目は今日、あなたにも向けられている。このいのちを、救いを得よ、と。

 

そしてこの恵みを得ているあなたは、この後、どう歩みましょう?ナアマンがこの土地の土を持ち帰り、どんな時にも神様を信頼し歩んだように、このキリストの血潮、救いを喜んで歩もうではありませんか。あなたはもう神様との和解を受け、あなたは神様のもの・子とされたのだから、この大いなる恵みを喜び受け取り歩み続けようではありませんか。