ー手を上げ続けるー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。モーセはヨシュアに言った。『私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。』ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。主はモーセに仰せられた。『このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。』モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、『それは「主の御座の上の手」のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる』と言った。」

出エジプト記178-16

 

私たちは神様に向かってその手を上げ続けよう。神様に私たちが祈り求めるなら、何者もあなたを打ち崩す事などできない。主が今日、あなたの名を覚えておられる事を覚え、私たちの心の手を主に向かってあげ、祈り続けよう。

 

さて↑のできごとは、かつてイスラエルの民がエジプトに奴隷として囚われ苦しめられていたとき、神様が憐みをもって、モーセを通して救い出され、彼らの先祖たちに誓われていた約束の地に導き出された、その道中の出来事。ある時、アマレク人という一族に襲われるのでした。といっても、実はこのアマレク人というのはイスラエルと若干血縁関係でつながりがあるのですが、イスラエルがあまりに祝福されているのを見て逆恨みをしてきて、徹底的にイスラエルに攻撃を仕掛け続けている一族なんです。自分たちを神様は豊かにされていたことを忘れて。

 

ちょっと説明的になりましたが、イスラエルの現状としては、エジプトで奴隷としてずっと捕らえられ生きてきたわけですから、そんな戦闘経験が豊かなわけではありません。だから、わざわざ近道となる地中海沿いの道の強敵を避けてきたわけですから。それに武器もない。これが今のイスラエルの民の現状でした。

 

しかし、モーセは若きヨシュア(後の2代目のリーダー)に戦いの準備をさせます。リーダーとして仲間を危険に晒させるのはどうか、と思いますが、しかしモーセは一つの確信があったのです。それは、彼らには最大の武器がある。武器、という言い方もあれですが、それはイスラエルの神、まことの神様が今ここに共におられること。この神様が味方である、ということが最大の武器である、ということを彼は確信していたのです。

 

あの最強のエジプトを打ち崩し、紅海を割って海の真ん中の陸地を通らせ、毎日見捨てずに食事も備え、今日まで導いてくださっている神様が、どうして今この瞬間だけ見捨てるだろうか?この問題と神様は別問題、とはせずに、今彼らを救い出され神様の御手の中にあるのだから大丈夫、と確信し、戦いに臨みます。そしてモーセは剣でもなく、「神の杖」と言っても、実際は羊飼いをしていたときに使っていた杖なんですけど、神様が働かれる時子の杖を通して神様は多くの奇跡を起こしてこられた。だから、これで敵を攻撃できなくても、神様がこの目の前の問題を打ち砕かれる、そう信じて神様にその手を挙げた。ああ主よ、この手を、あなたに委ねます、と。そして、この手を上げ続けている時は、イスラエルは常に優勢で、ついに彼らを討ち破るのでした。

 

この出来事は、決してモーセやイスラエルの民だから起こる話ではないんです。神の杖がすぐれていたからではない。だってそれはもともと羊飼いの時に使っていたただの杖ですから。彼は決してそれで戦ったわけでもないですし。しかし、神様がはたらかれるところには、昨日も書きましたが、私たちの想像をはるかに超える何かが起きます。物理的にどうやっても勝てるはずがない相手に、アマレクに勝利したように、私たちの目の前にある大きな問題、小さな問題、悩み、痛み、悲しみ、何より罪。これらは主の前には何するものぞ、打ち破られるのです。

 

あなたがその手を、神様の前に挙げ、その手を委ねる時。何が起こるか?それはあなたへの神様の計画ですし、私は神様ではないのでわかりません。ただ言える事は、神様はあなたを覚えておられるのです。「アマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう」とは逆に、あなたを造られた神様はあなたの名前を憶え、あなたの内にご自身の栄光を現そうとされるのです。だってあなたは神様の愛する子、造られたものですから。別にアマレクにだって本当は神様は覚えておられたんですよ?彼らの先祖、エサウにだって神様はちゃんと豊かにされていた、しかしそれは私の必要な物ではない、と拒否し、逆恨みし、離れていっただけで。

 

神様は、あなたの内にアマレクへの勝利がごとく、最善の御心を、愛を注ぎ、また現したいのです。しかし、私たちは神様から離れ、敵対し、本来アマレクのように神様の記憶、記録から消し去られるはずだった。しかし、神様は私たちを見捨てられず、アマレクを打つ代わりに、私たちの罪・死を打つ代わりに、神の御子たるイエス様を身代りに打つことを決められた。十字架に架け、死なせ、身代わりに裁かれることを決められたのでした。そして、この御子イエス様を自分の罪の身代わりとなられた救い主として信じ受け入れるなら、あなたは永遠に神様に覚えられる、御子イエス様のいのちによってそれは保証されているのです。

 

モーセは勝利の後、神様の前に祭壇を築き、アドナイ・ニシを名づけましたが、それは主は我が旗、という意味があります。つまり戦いにおいて、神様がご臨在してくださっているという事を掲げよ、ということなのです。あなたの人生に。あなたこの旅路に。あなたのすべての場において。イエス様の十字架ゆえに。もちろんそれはいつも神様がそのようなアマレク人と闘われるから大丈夫、という意味もあります。これもぜひ忘れないでくださいね?主は最後までサタンと闘われます。

 

しかし同時に旗は自分たちが何者なのか、をも表します。つまり、私たちは神様に赦された者、イエス様の十字架によって贖われた者です、と掲げるのです。私たちは罪赦された者として、このイエス様の十字架という旗を日々掲げようではありませんか。その時、彼らが悔い改める時、この戦いに神様が勝利され、御国が広がり私たちは平安を得ていくのです。神様の勝利の内に私たちは安らぐのです。今日、私たちはイエス様の愛の旗を、あなたの人生の内に、あなたの遣わされた家、職場、地域、日本に掲げ、神様の栄光が現されること、勝利を祈っていこうではありませんか。