ーあり得ない力・福音の力ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「再びヨナに次のような主のことばがあった。『立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。』ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな町であった。ヨナはその町に入って、まず一日目の道のりを歩き回って叫び、『もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる』と言った。そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。『人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。』神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。」 ヨナ書31-10

 

福音の力は、十字架の恵みは驚くべき力をもっている。十字架なんて語ったって何にもならない?違う。福音は悔い改めに導き、大いなる変化をもたらす。

 

さて、↑の話は紀元前の話。イスラエル王国は分裂。そんな頃、イスラエルの周りには強い国が多く↑にあるニネベ(当時バビロンが台頭する前で世界最強と言われたアッシリヤ帝国の首都)もまたイスラエルに敵対していました。恐ろしい国で残虐極まりない。あまりにグロテスクすぎる内容でここにはとても表示できない。もし興味があったら調べればわかると思います。

 

と、そんな残虐極まりないニネベに、神様は預言者ヨナを遣わしに行きます。ヨナは神様は悔い改めたら思い直される神様だから、こんなイスラエルに敵対して、しかも残虐極まりない集団は滅ぶべきだ、と最初は神様に逆らって別な方向に向かおうとするのですが、結局ヨナは悔い改め、このニネベに向かうのでした。そこから↑の出来事が始まります。

 

それにしても↑の箇所を見て思うのは、ヨナも感じていたことなのですが、神様だったら滅ぼそうと思えば一発で滅ぼせるんです。それにもかかわらず、どうして悔い改めの機会を与えるのだろう?それに、そこまでしなくても、滅ぼす気でいるなら、わざわざ「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」とお知らせしなくても、いいじゃないか、そう思うわけです。なんでこんな邪悪な連中に?

 

そんな連中が信じるわけがないじゃないか?誰しもがそう思う。しかし、一時的にとはいえ(彼らの世代は悔い改めたが、後の世代はイスラエルを攻める)なんと、彼らが悔い改める、自分たちの過ち、罪を認める結果となるのです。しかもその悔い改め(キリスト教になじみのない人にわかりやすく言うと、反省して心を改める事)っぷりが半端ない。

 

なんと、言われてすぐに悔い改めた。自分たちが好き勝手に生きてきたが、間違いなく神様はいる。このままでは自分たちは打ち滅ぼされる、神様の前に自分たちは無だと知り、「断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着」、王は「王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわ」るのでした。そして「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない」と布告を出すのでした

 

アッシリヤ・ニネベは神など信じない極悪非道、泣く子も黙る恐ろしい国、そんな弱腰では自分の地位何て守れない。しかし、王は、自分たちはこの神様の前にはこんな自分の名誉も、地位も関係ない、神様の前にそんな偽の王服などないに等しいことを知り、彼はそれを脱ぎ捨てた。自分が王としての名誉を守ることよりも、自分が生きること、国民が生きることを何よりも願ったのでした。そして↑にも書きましたが少なからず彼らの世代の内はイスラエルに敵対する事もなかった。

 

神様のことばには、いや神様ご自身には力がある。私たちは勘違いする。そんな神など信じて何になる?神を信じて行動したって周りには何も起こらないじゃないか、と思う人もいるかもしれない。しかし、神様の御ことばには、福音には人を、またあらゆるものを変える力があるのです。もちろん信じない人もいるでしょう。しかし、信じなければ最後は滅び、この世においてか、死して後の神様の裁きは待ってます。そしてニネベの人は悔い改めるというあり得ない道を選ぶのでした。驚くべき変化をもたらすのです。

 

ニネベの民だって、私たちだって本来、救われるに値する者は一人もいない。皆、神様から離れ、好き勝手に生きてきたから。私もその一人です。私もはっきり言えます、私は神様の恵みなどに与る資格などない人間です。ただ、神様の憐みによって、私は救われた。何でニネベの人たち何て、と私たちは思う、しかしそれは神様の目から見たら私たちだって同じ。神様を道具程度にしか見ない、操り人形としてしか見ない、そんな神様を神様としない私たちなど愛を受ける資格はない。

 

でも、神様はそれでも憐れまれたのです。彼らがそれでも悔い改めて、神様のいのちの内を歩むことを願われたのです。そして彼らを憐れまれヨナを遣わしたように、私たちがやがて来る40日目、この世の人生を閉じる日か、この世が終わる日か、その日が来る前に、私たちが救われるために、その機会を示すべく、神の御子たるイエス様を罪の中という最悪のニネベ世界に遣わされ、私たちの身代わりに十字架に架かられ死なれ、またよみがえられたことによって、私たちの罪の代価、本来支払わなければならない死、これを身代りの言われ、イエス様を救い主として信じる人には罪の赦しと永遠のいのちを与えて下さるのです。

 

神など信じたって何になる?神様を信じる時、私たちへの裁きの宣告は取り去られる。私たちの来ていた偽りの王服、着飾っていたものは空しく、それが脱がされ、新しく神様の衣を、義の衣を着せられ、王というか、神様の子として私たちはされ神様の偉大なる力、復活の力、神様の大いなる愛が、御心が注がれる。

 

その時、神様・福音を語って何になる?神様を信じない人たち、自分にいやな事をする人たちに神様の愛をもって仕えたって何になる?という疑問は晴れるだろう。だって、あなたの内にイエス様が生きて働かれるのですから。ヨナが語ったようなレベルではない、御子イエス様があなたの内に働かれるのですから。あなたのためにご自分のいのちさえ惜しまず与えるほどの方が。サタンも死も、病も、あのイエス様の十字架の前に打ち破られたのです。

 

ならば私たちは神様にもっと大いに期待しようではありませんか。今日、私たちは真面目に神様を信じてみませんか?シンプルに。神様が働かれる時に、十字架の恵みは私たちの想像をはるかに超える神様の実現力と愛。この神様の用意された救い、御子イエス様の十字架による救いを今日いただき、この恵みの内を歩もう。