「…シモン・ペテロが彼らに言った。『私は漁に行く。』彼らは言った。『私たちもいっしょに行きましょう。』彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。『子どもたちよ。食べる物がありませんね。』彼らは答えた。『はい。ありません。』イエスは彼らに言われた。『舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。』そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。『主です。』すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。イエスは彼らに言われた。『あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。』…イエスは彼らに言われた。『さあ来て、朝の食事をしなさい。』…」
ヨハネによる福音書21章1-14節
イエス様は昨日も今日も変わらない。私たちは勝手に昨日はこうだったのに今日はこれをしてくれない、と思っているけど、イエス様はいつでもあなたのために最高の食事(霊的な事も含め)を用意してくださっている。
さて、↑の出来事は、イエス様が十字架に架かられ、死なれ、葬られ、陰府に降り、3日目に死人の内よりよみがえられてしばらくしてからの出来事。ある時弟子たちは、イエス様がガリラヤ湖で待っている、という話を思いだし、ガリラヤ湖という湖に向かいました。ここはイエス様との思い出の場所であり、多くの奇跡を目撃した場所でもありました。
しかしイエス様を見つける事ができず、とりあえずは漁に行こう、と漁師出身のペテロという男(12弟子の一人)が言います。そこで漁師出身の何人かが同行しました。そう、あのイエス様とならどこにでも、牢獄にだって行くと言っていたのに3度にわたり否定し、最後は呪いをかけて知らないと否定したペテロ。
しかし、漁の専門家たちが一晩湖に出ても一匹も魚が取れませんでした。そんな時、なんとイエス様が岸辺に立たれ、子どもたちよ、食べる物がありませんね、と優しく問いかけるのでした。そしてイエス様は網を右側に降ろしなさい、というとそれに従った弟子たちは網が破けるほど大量の魚を獲るのでした。その時、岸に立っていたのがイエスさまだと、弟子たちは初めて気づくのでした。
そう、イエス様はかつて同じような奇跡を彼らに成された。同じように魚が獲れない彼らに、イエス様は大量の魚を獲れるようにしてくださった、それを彼らは思いだしたのです。
彼らはイエス様を裏切った弟子たちだった。逃げ去った者、最後までどこまでもついていくと言っていたのに裏切り、3度にわたり否定し、あまつさえ最後は呪いをかけて否定したペテロ。そんな彼らをどうしてイエス様は憐れむ必要があるだろう。しかし、イエス様は変わらなかった。
イエス様は変わらずに彼らに食卓を備え、同じように彼らの内に神様の御業を現された。こんな者たちなど見捨てる!などとは考えずに、彼らのために食卓を備えるのでした。イエス様のもとに招かれたのでした。ここで養われ、いのちを得よ、と言わんばかりに。「さあ来て、朝の食事をしなさい」と。そしてこの後彼らにその道を、悔い改めの機会を持ち導かれるのでした。
彼ら弟子たちの誰が、このイエス様の、神の御子たるイエス様の偉大なる奇跡に、また給仕に与る価値があっただろうか。彼らの社会では一緒に食事をする、という事は仲間に加えられたという事、どうしてイエス様の仲間、家族に加えられる価値が彼らの内にあっただろう。
しかし、イエス様の愛はアガペー、無代価、無償の愛。いや、イエス様が十字架上で私たちの罪を身代りに背負われた故に、その代価を支払い済み故にこの愛を受けることができる。イエス様の思いは昔も今も変わらないのです。私たちが日によって神様への思いを変えているだけで、神様の願いは、イエス様の私たちへの願いは、ただ一つ。私たちが罪を悔い改め神様に立ち帰り、救いを得る事。永遠のいのちを持つ事に他ならない。それすなわち、神様の家族に加えられる事。その食卓に加えられる事。
だって、神様はあなたを造られた方ですよ?その神様がどうしてあなたを放っておき滅びに向かうことを我慢できるだろう?だからまず愛を示され、救いの道を示された。ただ、この御子イエス様を自分の罪のために身代わりに死なれ、なおよみがえられた救い主として受け入れるだけ。それだけで私たちは罪赦され神様の子とされる。滅びの道から救われるのです。
神様は昨日も今日も明日も、養われている。弟子たちに裏切る前も後も、変わらず。なぜ?彼らがいのちを得、神様のまことの養いの中歩むことを願っておられる故。十字架はその和解のために示された神様の無償の愛なのです。私たちが今まで気づかずにいたこの愛を、神様の本来子どもたる私たちに注ぎたいと思って用意されている恵みを、愛を、ご計画を、神様の御心を受け、いのちの内を歩んでほしい、と。
これは、最初にも書きましたが、昨日も今日も変わらない。私たちは勝手に昨日はこうだったのに今日はこれをしてくれない、と思っているけど、イエス様はいつでもあなたのために最高の食事(霊的な事も含め)を用意してくださっているのです。
「イエスは彼らに言われた。『さあ来て、朝の食事をしなさい。」あなたはこのイエス様の招きにどうこたえるだろうか。イエス様は今日も明日もあなたのために必要な糧を用意して待っておられる。衣食住だけではなく、あなたのすべての必要を。御子イエス様の十字架の救いと共に。
