ーわたしがおまえに代わって死ねがよかったー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「するとクシュ人が入って来て言った。『王さまにお知らせいたします。主は、きょう、あなたに立ち向かうすべての者の手から、あなたを救って、あなたのために正しいさばきをされました。』王はクシュ人に言った。『若者アブシャロムは無事か。』クシュ人は答えた。『王さまの敵、あなたに立ち向かって害を加えようとする者はすべて、あの若者のようになりますように。』すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。『わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。』」

Ⅱサムエル記1831-33

 

神様は、それでもの神様。それでも私たちに悔い改め、生きてほしい、御子イエス様のいのちを差し出してでも。この神様の愛の涙をもってなされた十字架を忘れてはいけない。

 

さて、↑の箇所は紀元前イスラエル王国での出来事。イスラエルの2代目の王ダビデは神様の助けの元、順調に国を治めていました。しかし、↑に出てくるアブシャロムという自分の子どもによってクーデターを起こされ、ダビデ王は国を負われる形となりました。まあ不倫→隠蔽殺人→不倫の結果生まれた子供の死、悲しみによって子供たちの間に起こった問題に耳を傾けず、そこに不信感をもって、というのもクーデターの一員にあったように見えないこともないのですが。

 

そんな中で、ダビデを追っていたアブシャロムをダビデの部下・というか将軍の一人、ヨアブによって討たれた、というニュースが入って来たのでした。その辺りが↑の話。本来なら、ダビデにとっては自分を王から退け、そのいのちさえ狙うアブシャロムの死など喜ばしいことこの上ないニュース。これで自分の国に帰れる。しかも、さらにはこのアブシャロムによって、問題児だった一人息子と言えどもその息子が殺されている。その犯人のアブシャロムが死んだ。本当に喜ばしい話だった…はずだった。

 

しかし、このダビデ王はそれでも、「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ」と嘆き悲しむのです。

 

これにはさすがの将軍ヨナタンも困った。何を言っているんですか、あなたを守るために我々は必死に戦って、あなたの敵を打ち破ったのに、何を言っているんですか!兵の指揮が下がるじゃないですか、と諭さなければならないほどダビデは憔悴しきっていたのでした。

 

私もこの箇所を何度も読んだことがあり、なぜだろう?となかなか納得できなかった。私の視点はヨアブ側にあった。でも、それでもアブシャロムにしても、自分を追い込み捨て、殺そうとするアブシャロムであっても、それでも我が子だった。我が子の死を悼み悲しまない親ではなかった。彼が、彼が、もし悔い改めて帰ってくれたなら、それが彼の願いだった。

 

家出した子を親はそれでも見捨てられないでしょう?まあすべての親がそうじゃないのかもしれませんが、それでも捨てられない、切れないのが親子の縁。彼が反省して、悔い改めて帰ってくれることを切に願っていた、しかしそれが叶わず死んだ、という悲しみ。

 

ふとこの事を思った時、神様の私たちへの愛を思い出したのです。昨日、一人の罪人が欠ける、滅びる事を神様が悲しまれる、ということを話しましたが、神様の願いは、私たちが、罪人が、悔い改めて生きる事!そこにあるのです。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ」という訴え、アブシャロムは、私でもあった、あなたでもあった。

 

私たちは、私は、あなたは本来は神様を自分の国・人生から追い出し、こんなものは無くなってしまえ、とある意味で殺そうとした。ないし自分の役に立つか立たないかで判断し、役に立つ神を、王を求め、また自分を王として立てる。アブシャロムと私たちなど何の変りもない。

 

しかし、神様を追い出したところでどうして私たちは生きることなどできるだろう。神様が私たちの内にその愛を、御心を現される、神様は私たちに必要な最善のすべてをもってあなたを導こうとされているのに、どうして神様から離れて生きて行けるだろう。私たちはそれこそアブシャロムのように無残に死にゆくはずだった(ちなみにアブシャロムは自分の自慢だった長髪が木に引っ掛かり、つるされ、槍で刺し殺された)。でも、神様の思いは、あなたが死ぬくらいなら、と我がひとり子なる御子イエスキリスト様を死なせる決断をされた。身代りに十字架上で罰し、死なせた。そしてなおよみがえらせられたことによって、私たちと和解を果たし、神様の治めるもの、神様の養いの中、神様の御国へと招き入れられたのです。

 

それでもあなたを思われるイエス様はあなたを救い出すべく、探し出すべく人となって来られ、十字架に架けられ死なれた。涙をもって。イエス様を見殺しに十字架上に架け続け、イエス様が生きる事よりもあなたが滅びる事を悲しまれる神様は御子イエス様を十字架から最後まで降ろさず、あなたを愛する事を決断された。そこまでして買い戻された、御子イエス様のいのちによって買い戻されたのがあなたです。

 

ならばどうしてもう神様から離れる必要があるだろう。今日、私たちは、ダビデではなくまことの父なる神様の元に帰ろう。この神様の養いの中生きよう。何を神様を疑う必要があるだろう?あなたの死を悲しまれ、御子イエス様を身代りに罰するほどにあなたを愛される神様があなたのうちにご自身の愛を、御心を現したいと待っておられるんですよ?今日、私たちは主の前に帰り、主と共に歩み続けようではありませんか。父の涙を私たちは忘れてはいけない。あの十字架に現された神様のあなたへの愛を忘れてはいけない。