ー我が子よ、と語る神様ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「わが子よ、父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない。」

箴言1章8節

 

神様は、私たちを我が子、と呼んでくださる。御子イエス様のゆえに。神様の願いは、あなたが罪の奴隷として生きるのではなく、悔い改め、神様の子として生きる事。この事を私たちは忘れてはいけない。

 

さて、↑の箴言は、紀元前のイスラエル王国、3代目の王、ソロモンが書き残したものです。彼は王になる前、神様に願ったこと、それは、イスラエルを正しく治めることができるよう、知恵を与えて下さい、と願った。

 

彼は自分が好きなように生きることを願ったわけではなかった。この世の統治者や、どこぞの国の独裁者のようにではなく、神様の御心が成る事を願った。まあ彼の後半の人生では神様を捨てて、最後は惨めだったのですが。せっかく王になるのですから、しかも神様が何でも望んでいる事を言ってみなさい、というのだから、もっと求めることはたくさんあったでしょう。しかし、この世の何を差し置いても、神様が彼を祝福してくださらなければ、その御心を彼の内に現してくださらなければ何の意味もない、ということを良く知っていたのです。

 

彼の家庭は実は微妙な中にありました。彼のお母さんは、ダビデ王さまに見初められ、不倫に誘い込まれた。もちろんお母さん自身の問題もあったでしょうけど、その不倫ゆえに、そのお母さんの旦那は隠蔽殺人によって死ぬこととなり、その時与えられた赤ちゃんも死ぬという最大の悲しい事件があった。結局ダビデ王も罪を悔い改め、責任を取ってか?そのお母さんを正式に妻に迎え入れた。そして生まれてきたのがこのソロモン王。

 

そんなものだから、他の兄弟たちから彼らはいい目では見られなかったかもしれない。ダビデに仕えていた将軍も、ソロモンにはつかない、というくらい。

 

しかし、彼はそのような小さな家族である彼らを神様が憐れんでくださった事を知った。目に留めて下さり、彼らの内に神様は御心をなし、悲しみの一家を王家に引き入れてくださった、王としてくださった。その憐みを良く知っていた。この神様にあって彼は生きた者となった事を。まあもちろん、父ダビデの内に神様が働いていたことを見ていたという事もあるでしょうけど。

 

しかし、彼は父がどうだったか、母がどうだったか、なんて関係なかった。私はこの私を愛し造られた神様を、私の神様として求めます、と願った。この神様の御心、愛によって行きたい、と決断した。そうした中で彼は繁栄して行った。諸外国からもうらやまれるような程の金銀財宝、知恵を「神様によって与えられた」のでした。

 

私たちは神様がいるからこそ、生きた者となる。昨日、本来その時は受ける事が赦されなかったギリシャ人の女性にさえ、神様はその愛を注がれた、と書きましたが、私たちはこの神様によって、その御心によって、そのご愛によって生きた者となる。神様が私たちと本来罪ゆえに断絶されている、その壁を打ち破られ初めて、私たちは生きた者となるのです。

 

ソロモンは「わが子よ、父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない」と言いますが、別におとうさんの訓戒に服従しろ、お母さんの教えに服従しろ、と言っているわけではない。もちろん神様は、お父さんやお母さんを通しても語られます。両親に従う中で私たちは権威あるもの、神様に従うことを学ぶわけですから間違ってはいない。まあその場合両親こそ神様の声に聴き従わなければ、その教えはむちゃくちゃになって、子どもたちをいのちの道には導かないのですが。

 

と、そう、気づきましたね。ソロモンの訓戒、母の教えは、神様ご自身のことに他ならないのです。神様を求めよ、神様の御教えに聞き従う事を何よりも求めたのです。私たちにとっては神様こそ、父(母ではありませんが比喩的には親、と考えるのが分かりやすいでしょう)なのです。私たちはこの神様の御教えに、御声に、何より神様ご自身に従う、そこにいのちがある、あなたを生かす事を何より示されたのです。

 

神様は、私たちを愛し造られた。だから私たちはある意味で神様の子です。そうなんですよ?あなたは神様によって造られた。神様ブランドなんですよ?知ってますか?しかし、私たちはこの子としての権利を放棄してしまった。神など信じたって何になる?私はわたしだ、と神様を捨て、他の神々、自分の支えになるものを求めて行った。というよりも自分に聞き従う操り人形的神を求めて行った。

 

神様は私たちに子として、最高のものを備えたい。それは神様ご自身が共に歩まれ、神様の愛が、祝福が、いのちが、あなたの内に現されていく、神様ご自身が共に住まわれるという最高の歩みを用意されていた。にもかかわらず私たちは神様を捨てた。罪は犯罪だけではない、神様を悲しませる事、神様を神様としない事、みんなそう。胸に手を当ててみればわかることでしょう。

 

ある元警察官が、こんな話をしていました。私は人間としては罪を犯したことはない。しかし、神様の前にだったら罪を犯したことがあるかもしれない、と。聖書の話をその日初めて聞いた、でも、彼は自分の内に愛のない心、神様を悲しませるそのような歩みがあったことを知ったのです。

 

私たちは神様から離れ、もはや神様の子と呼ばれる資格などない。神様のことば、愛を受けるに値しない。しかし、御子イエス様が私たちが本来支払わなければならない刑罰、死をその身に負ってくださった事によって、私たちの罪を帳消しにされようとしてくださったのです。十字架で死なれ、完全に死なれ、罰せられ、しかしよみがえられたことによって、私たちと神様を和解させてくださる、その救いを、我が子、私たちのために用意してくださったのです。あなたがこれを、この最高の訓戒、福音を、十字架の愛を受け取る時、あなたは、神様の子、となる。神様を「お父ちゃん」と呼ばせていただける最高の関係に引き戻されるのです。イエス様が十字架で父なる神様から引きはがされた、この故に私たちの刑罰は取り除かれ、神様と和解させていただいたのです。

 

神様がお父ちゃん、父となってくださった。御子イエス様のいのち、十字架ゆえに。あなたはこの愛を知っているだろうか?この愛ゆえに結ばれた親子関係、十字架によって結ばれた親子関係ゆえに神様はあなたの内に最高の愛を現してくださる。この福音こそまさに、↑の究極の訓戒です。ここにいのちがあるのです。

 

イエス様はおっしゃりました。私たちはパンだけではなく、神様の口から出る一つ一つのみことばによって生きる、と。御子イエス様によって回復され、和解されたこの関係の中で、親子関係の中で、ことばをもって、またその愛を持って今日もあなたにその御心を注いでくださっている。あなたはこれを信じるだろうか?今日、イエス様の救いを受け取ろう、また受けたことを喜び、この御子イエス様にあって和解された喜びの内を歩もうではありませんか。

 

あなたを「我が子よ」と呼び、その子のために最愛の御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えて下さる神様。あなたはこの親子関係を侮っていませんか?もっともっと神様を、神様の御心を求め歩もう。もっともっと神様に期待し、その声に耳を傾け、親しい関係を持たせていただこう。この御子イエス様の十字架にあって結ばれた関係において、何者もこれから引き離すことはできない。むしろあなたのうちにいのちの泉を湧き上がらせ、生かしてくださる。今日、このいのちをいただき、「お父さん」と神様を呼び求め、この方と共に歩もうではありませんか。