ーイエス様の与えたのはパン屑ではなくー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イエスは、そこを出てツロとシドンの地方へ行かれた。家に入られたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。するとイエスは言われた。『まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。』しかし、女は答えて言った。『主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。』そこでイエスは言われた。『そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。』女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。」

マルコによる福音書7章24-30節

 

イエス様は、私たちに何か残りものとか屑とか、そういうものを与えるのではなく、イエス様のいのち、イエス様そのものを私たちにお与えになられた。ご自身のいのちにかけて。

 

さて、↑の出来事は、神の御子たるイエスキリスト様が人となってお生まれになり、歩まれていた日々の中の一コマ。ある日、ギリシャ人の女性がイエス様のところに来ました。彼女の娘が悪霊に憑りつかれており、何とかイエス様に負い出してほしい、そう願い必死になってイエス様に願い求めるのでした。

 

ところが、驚いたことにイエス様は最初は沈黙され、それでも食い下がる女性に、「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と答えられた。

 

愛の方、神の御子なのになんてことをいうんだ!と多くの人が思う箇所かもしれない。イエス様、それは愛がないよ、ひどいよ、と思われてしまうかもしれない、クリスチャンの中でもそう思われる方もいる。これを書いている私自身もこの箇所を分かち合うのに躊躇するほどに理解しがたいイエス様のことば。でも、ここ数日間、ヨセフの生涯を「救い主イエス様を送られた神様の視点」で見た時に多くのものが見えてきたように、この箇所も聖霊様の目で、福音の目で見るとき、驚くべきことを私たちに神様は語られるのです。

 

話しは脱線しますが、イエス様が復活されて後天に昇られた後、イエス様は新しい助け主として聖霊様をお与えになりました。聖霊様は福音を理解する力、神様の愛、救いを理解させる力をも私たちの内に注がれる、というよりも、語りかけて下さる。私たちはそういう意味でも内なる聖霊様の声に良く耳を傾ける必要がある。

 

ことの事情を前にして、それは私の理解にはあり得ない話、と拒否するのではなく、神様の御心を拒否するのではなく、私たちこそこの主のことばの前に遜る必要があるのではないか、と思う。それこそ、↑のギリシャ人の、娘が悪霊に憑りつかれ苦しんでいるこの親子のように。このお母さんのように。

 

話を戻して、実はこのイエス様のおっしゃりたいことは、そもそもの計画はイスラエルの民をまず救いに導き(まあそもそもイスラエルの民もまた、この招きに応えなければその特権に与ることはできなかったのですが)その彼らを通して異邦人(↑でいうところの仔犬)にその祝福があふれ流れる、それがまず第一の神様の計画、ということを彼女に語られたのです。

 

あ、ちなみに神様はじゃあ、異邦人・イスラエルの民以外にその愛は注いでいなかったのか?と言われたらそうではない。イエス様の誕生を祝いに来たのは当方の異邦人。イエス様の家系図の中にも、異邦人たちの血も混じっているんです。彼らにも神様は目を届けておられる、ただそれを受け取るかどうかの問題だっただけ。

 

そして↑のギリシャ人の女性はそれでもそれでも、イエス様が主、この方以外に救いはない、と自分の国の偶像たち、ギリシャの神々ではなく、まことの神は他にはいない、とイエス様の前に近づいてきたのです。その彼女にイエス様は喜んで答えられた。

 

神様はその裾野を昔から広げ続けてくださっていた。我に帰れ、我に帰れ、と。だって冷静に考えたら、私たちはみなイスラエルの子孫どころか、アダムとエヴァの子孫、同じ血を引いている。何より私たちは神様の作品であると頃には変わりはないのです。だから神様はその裾野を広げ、ご自身の愛をあなたの内に注ぎ、養いたいと思っていたのです。それこそ、↑の、主人の家の仔犬(犬は特に汚れた者と当時されていた)という受けるに値しない者たちにさえ。

 

本来私たちは神様の家のパン、愛、養い、その祝福に与る資格などない。イスラエルの家云々の前の話。差別だ~云々の前に、私たちは神様の子でありながら離れて行った。神様を神様とせず、自分の便利な召し使い程度にしか考えず。しかもすぐ裏切る。そんな私たちがどうして神様の養い、愛を、パンを受ける事が赦されるだろう。異邦人・仔犬?私たち自身が神様の前ではそうであった。主人の家のテーブルから落ちるパン屑さえもらうに値しない者だった。

 

しかし、あなたがこのまま神様の愛を受けずに、離れ、朽ち果て、滅びゆく事など我慢がならない。だからこそ、イエス様が来られた。イエス様がこのあり得ない関係を打破するべく来られたのです。私たちがその罪のゆえに神様の愛を受ける事が赦されない、断絶されているなら、とイエス様ご自身が私たちが支払わなければならない罪の代価を支払ってくださったのです。あなたが、この主人・神様の食卓に、子として受け入れられるために、そこで生きるために、私たちの罪の代価をその十字架で身代りに支払ってくださった。身代わりに死んでくださり、死んで葬られた。私たちが支払わなければならないすべての罰をその身に負われたのです。

 

この死の壁、断絶、神様と無関係と言われてしまうような、そのような私たちが神様と和解させていただき、もう一度その食卓、テーブル、神様の家族に、神様の子として戻すために。

 

神様は、このイエス様の完全なる愛、身代わりの罰・贖いを良しとして、イエス様を死からよみがえらせてくださった。それによって、私たちがイエス様を自分の罪ゆえに身代りに十字架に架かって死なれた救い主として受け入れる時、その罪を悔い改める時、神様にごめんなさい、と悔い改める時、あなたはこの神様の食卓に戻される。あなたは仔犬と主人の上のような惨めな関係ではない、御子イエス様のいのちによって結ばれた本当の親子関係に結ばれ、回復されるのです。↑の女性のように、これをそれでも求めに行かなければ受ける事はできない。

 

イエス様は、私たちにパン屑を、あまりものを、クズを与えようとしたのではない。あなたにご自身を与えた、いのちのパンとなられ、あなたに全てを与えて下さった。そのいのちと共に。この神様との和解された関係において神様は全てを与えて下さる。イエス様のいのちによって結ばれた、回復された関係の中で神様がどうして、パン屑を私たちにくれるだろう?あなたにイエス様のいのちのパン共にすべての良きものをあなたに与える。何よりイエス様ご自身があなたの内に住まわれ、聖霊様があなたの内に働かれるのです。

 

↑の娘は、悪霊が追い出されましたが、私たちはこのイエス様のいのちによって、その罪は除き去られ、真のいのちを私たちは受ける。新しいいのちの内を私たちは歩ませていただけるのです。イエス様のいのちによって保障されたまことのいのちの道を。

 

イエス様がそのいのちによって、十字架からあなたにその裾野を広げてくださった。今日、私たちはまことのいのちのパンをいただきに行こう。こんなパンくずなどもらって何になる、などと考える必要はない。このイエス様の十字架にあって和解された関係において、それは屑でもなんでもない。宝、いのちそのもの、すべてがそこにある。今日主の前に帰ろう。