「これらのことの後、エジプト王の献酌官と調理官とが、その主君、エジプト王に罪を犯した。それでパロは、この献酌官長と調理官長のふたりの廷臣を怒り、彼らを侍従長の家に拘留した。すなわちヨセフが監禁されている同じ監獄に入れた。侍従長はヨセフを彼らの付き人にしたので、彼はその世話をした。こうして彼らは、しばらく拘留されていた。さて、監獄に監禁されているエジプト王の献酌官と調理官とは、ふたりとも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはおのおの意味があった。朝、ヨセフが彼らのところに行って、よく見ると、彼らはいらいらしていた。それで彼は、自分の主人の家にいっしょに拘留されているこのパロの廷臣たちに尋ねて、『なぜ、きょうはあなたがたの顔色が悪いのですか』と言った。ふたりは彼に答えた。『私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。』ヨセフは彼らに言った。『それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。』それで献酌官長はヨセフに自分の夢を話して言った。…『…あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。』調理官長は、解き明かしが良かったのを見て、ヨセフに言った。…三日目はパロの誕生日であった。それで彼は、自分のすべての家臣たちのために祝宴を張り、献酌官長と調理官長とをその家臣たちの中に呼び出した。そうして、献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をパロの手にささげた。しかしパロは、ヨセフが解き明かしたように、調理官長を木につるした。ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。」
創世記40章1-23節
イエス様が降って行けない場所はなかった。どんなに理不尽な目にあおうと、裏切られようと、濡れ衣で不当裁判によって死刑になろうとも最後まで文句を言わず、私たちを救うために十字架に架かられた。それによって、私たちに福音を届けられたのです。死刑囚にさえ。イエス様の愛の届かない場所はない。これを受け取るかどうかはあなた次第。いのちを得るかどうかはあなたの決断次第。
ということで、ここ数日続いている、ヨセフの話。紀元前、まだイスラエル王国が建国されるよりもはるか昔の話。イスラエル民族の基のアブラハムの息子、イサクの息子、ヤコブ(名前をイスラエルと改名された)の一族の話。ヤコブのヨセフに対する偏愛によって、兄弟たちは↑に登場するヨセフに嫉妬していた。と言ってもヤコブ自身は他の兄弟の事もちゃんと心配していた、愛を注いでいた、ただそれが彼らに取って気に食わなかっただけなんですけどね。
そんなある日、神様はヨセフを通して夢を見せ、やがて彼ら兄たちが、また父母がヨセフの前にひれ伏す日が来ることを示されたのでした。ところが、これにますます怒り心頭の兄弟たちは、ヨセフを最終的にエジプトの奴隷として売り渡すのでした。神様が彼らを救うために、後の世界的大飢饉から救うべく彼を遣わされようとしている、ただその計画の前に彼らはひれ伏すのではなく反発した。
ただ、そこでも神様はヨセフを守られ、そのエジプトの家を栄えさせた、でもその奥さんの不倫の呼びかけに答えなかったヨセフは濡れ衣によって牢に入れられる、そこから↑の話が始まります。
彼は濡れ衣で捕まっても腐らなかった。神様から遣わされたはずの彼、しかもイスラエル部族の中心の子。何でおれが、と腐らず、ここで仕え、ついには囚人の世話までまたされるようになった。しかも、王に仕える元高級官僚の囚人さえ任されるほどに。神様は彼と共におられ、彼を通してその栄光を現された。そして囚人たちもまた神様に触れられる機会となるのでした。
と、この出来事をヨセフの視点で見ると、どんな苦難の中にも神様は共におられ、守られ、導かれる、と分かる。まあその通りなんですが、これ、神様の視点で読みかえしてみると全く違う姿が見えてくる。
神様は、このご自身の愛を現すため、この囚人たちのところにまでヨセフを遣わした、ということなのです。神様はある特定の一族だけを救いたい、世界的飢饉から救いたいだけだったら、わざわざエジプトまで売る必要はなかった、しかし神様はご自身の愛を、エジプトの奴隷になるという理不尽、濡れ衣で牢獄に入れられ囚人にまでなってまでも、彼らのところにまで神様の愛を届けたかったのです。
この愛は、私たちに対しても変わらない。この神様の愛は。神様からしたらとんでもない話。なぜ大切な御子イエス様を、私たちを神様からの永遠の断絶、裁きを受ける者たちのところに送らなければならなかったのか。兄たちに売られ、何の罪もないのに囚人にまで陥れられて。普通に考えたらこんな理不尽な話はない。冗談じゃない、と思うところ。しかし、神様はそれでも、あなたを救うために、その理不尽さも御子イエス様に背負わせてまで、あなたにその愛を現すため、その牢獄にまで、死刑囚たちのところにまで届けられたのです。本来御社など受けるに値しない、私たち罪人、神様の愛を受けるに値しない私たちにその愛を届けるため、イエス様ご自身が最も近いところまで来られたのです。
そして2人の元高官に恩赦の道と裁きの道があったように、御子イエス様がさらなる理不尽、罪のない御子イエス様が私たちの罪を身代りに背負われたことによって、私たちに恩赦の道を示された、開かれたのです。私たちが、あなたが御子イエス様の前に、この十字架の前に罪を悔い改めるなら、私たちは罪赦され、御子イエス様のいのちゆえに音写され、復活のイエス様と共に神様の御元、その宮殿に招き入れられるのです。その食卓、家族に与り、招き入れられ、神様の子として受け入れられるのです。
ヨセフはここから10数年、この釈放された人に忘れられ、なお牢に閉じ込められるという理不尽の中います。どん底のどん底に。せっかく彼らに愛を注いだのに。イエス様はもっとつらかった。私たちに、この罪の世の中、牢獄の中、その暗闇の中に降って来られ、その愛を示されたのに裏切られ、十字架に架けられた。しかしイエス様は死んですぐによみがえられたわけではなかった。神様と完全に断絶され、完全に死なれた。私たちが追わなければならないすべてをご自身が背負われたのです。陰府に降られてまでも、私たちが追うべき裁きをすべてその御におわれた。神様に断絶される、罪のない神の御子が、その理不尽さえ負われて。
その徹底した理不尽をすべてその身に引き受け、御子イエス様のいのちによってあなたは恩赦が赦された。でも、そんなものは関係ない、とそれでも神様の愛を拒否するも、受け入れ、その恵みをいただくも、あなた次第です。
神様は、神様の愛が、御心が、恵みが失われている飢饉状態から、私たちが救い出され生きた者となる事を何より願われている。私たちが罪の奴隷として、とらわれ続ける事よりも、神様の子として生きることを何よりも願われ、この理不尽を、私たちの負うべき罪も、痛みも、哀しみも、全部背負われた。ヨセフが「あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください」と解放された囚人に行ったように、イエス様も「わたしを覚えなさい」とおっしゃられた。
今日、私たちはイエス様が身代わりに負われたこの究極の理不尽を、いやそれ程の神様の愛を覚えよう。そしてこの神様に今日立ち帰り、この恵みの中を歩もう。このどん底まで降って来られたイエス様が、復活のイエス様があなたの内に住まわれ、あなたと共に引き上げられ、神様の子として共に歩んでくださるのだから、そのことを覚え、この新しい歩みに大いに期待し歩もう。あなたを保証しているのは、まぎれもない、御子イエス様なのだから。