ー復活のイエス様があなたに見せるのはー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「それから二年の後、パロは夢を見た。見ると、彼はナイルのほとりに立っていた。ナイルから、つやつやした、肉づきの良い七頭の雌牛が上がって来て、葦の中で草をはんでいた。するとまた、そのあとを追ってほかの醜いやせ細った七頭の雌牛がナイルから上がって来て、その川岸にいる雌牛のそばに立った。そして醜いやせ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。そのとき、パロは目がさめた。それから、彼はまた眠って、再び夢を見た。…そこで、パロは使いをやってヨセフを呼び寄せたので、人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。彼はひげをそり、着物を着替えてから、パロの前に出た。パロはヨセフに言った。『私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。あなたについて言われていることを聞いた。あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが。』ヨセフはパロに答えて言った。『私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。』…このことは、パロとすべての家臣たちの心にかなった。そこでパロは家臣たちに言った。『神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。』パロはヨセフに言った。『神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。』パロはなおヨセフに言った。『さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう。』そこで、パロは自分の指輪を手からはずして、それをヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。…」

創世記41章1-44節

 

イエス様は、理不尽の理不尽を負いつくされ、私たちの身代わりに十字架で罰せられ、死なれた。神の御子であられるのに。しかし死んで終わりではなく、よみがえられた。この事によって、私たちがこの復活の恵み、神様の子として引き上げられる、その最高の福音を届けてくださった。

 

さて、↑はイスラエルの一族の初期のころの話。アブラハムという人を神様が一族の基として置かれ、その息子イサク、その息子ヤコブの時代の話。そのヤコブという人は偏愛傾向があり、年取ってから生まれたヨセフをことさらに愛していた。もちろん、兄たちにも愛情は注いでいたのですが、それゆえに兄たちにヨセフは嫉妬されていました。しかも、神様がヨセフに、兄たちや父母までヨセフの前にひれ伏す日が来る、なんて夢を見せられたものだから、余計に兄たちは反発し、それゆえにヨセフはエジプトの奴隷として売られ、そこで一生懸命仕え、神様の恵みによってその家もまた祝福された。にもかかわらず、その家の奥さんの不倫の誘いを断ったら、彼女のプライドが傷ついたのか、濡れ衣を着せられ、彼は牢に閉じ込められるのでした。しかし、その牢でも神様に信頼し委ねていたヨセフを通してその牢内でも神様は愛を現した。

 

そんな中で王の側近たちが罪を犯し、同じ牢に来たとき、神様は彼らに夢を見せ、ヨセフが解き明かし、牢から出るチャンスを得ていた、しかし、恩を受けたその高官はなんとその恵みを忘れ、ヨセフを助けるという事を忘れてしまったのでした。そんなところから↑が始まります。ヨセフは2年間忘れられていた。でも、この2年が無ければ彼は王の前に立つ事はなかっただろうし、エジプトに神様の愛が現されることはなかった。エジプトにもまた神様の愛が、救いが現されるためにも、彼は神様の時を待たなければならなかった。しかし時が来て、ついにヨセフはこの牢を出る日が来ます。

 

↑のように神様はファラオに夢を見せました。この先7年間豊作がある、その後7年大干ばつ、大飢饉が続く、すべてを食い尽くすほどの大いなる飢饉が世界規模で起るという夢を見せます。しかし、これに胸騒ぎを覚えるも、ファラオはその夢の意味を解き明かせず困っていた時、ヨセフが夢の解き明かしができることを思い出し立高官によって、牢から連れ出し、ファラオの前に立たせるのでした。そして彼の見事な解き明かしを見たファラオは、彼の内に働かれる神様の前にひれ伏した。そして彼にエジプトを治めてもらいたい、と総理大臣として彼を建てた。しかも王という立場以外彼には一切勝らない、と認めるにまで至ったのでした。

 

さて、この話をただ単に、神様がいつか暗闇から救い出してくださる、的な精神論で終わらせてはいけません。ヨセフは、神様が大飢饉から救うために遣わされた人だった、そのために神様は全ての理不尽、苦しみを彼に背負わせ、その救いの道を整える役割だった。そうなってくると話はだいぶ変わってきます。

 

神様は、私たちを、神様との関係における大飢饉、断絶を、罪による裁きから救い出すべく、御子イエス様を遣わされた。断腸なる思いで。神の御子であられるのにイエス様は理不尽な世の中、罪の中、神様を神様とさえ思わないような中に来られる、そんな理不尽話はない。それでも、神様は私たちに愛を現すために、私たちのところに遣わし、時に奇跡をなされ、時に癒され、時に励まし、時には悔い改めに導かれ、ついには、最大の理不尽、罪がない御子イエス様が濡れ衣で逮捕され、身代わりに十字架に架かられ死なれる、ヨセフ以上の最悪の罰をその負われた。

 

この事は神様にとってどれだけ苦しい決断だったろう。しかし、あなたが神様との断絶によっていのちを失っていく事など我慢できなかった。それゆえの決断だった。そして2年間ではないですが、イエス様が神様との断絶を3日間負われた。完全なる死をもって。しかし、死では終わらない。

 

イエス様が3日目に「父なる神様によって」引き上げられた、復活成されたことによってはじめて、私たちはこの救いに与ることができるのです。ヨセフが救いをもたらす使者として今ファラオの前に立ったように、神様は、イエス様を復活させてくださり、私たちの前に立たせてくださったのです。

 

ファラオに示された夢のように、私たちは確かに好き勝手に生き、豊かなように見える、しかし、神様との断絶の前には私たちは生きることなどできない。私たちがこの十字架という夢ではない、リアルの事実を目の当たりにし、聞いた時、私たちがこれをファラオのように受け入れなければ、ヨセフを総理として立てたように、イエス様を救い主としてお迎えして初めて、私たちは神様と和解させていただき、本当のいのちを得るのです。

 

私たちがイエス様を引き上げ、どうするかを裁判するのではない。私たちがイエス様の十字架の前に立たされあなたはどうするか、問われるのです。あなたはこの大飢饉の中、神様との断絶、いのちのない中を、そんなの関係ないと歩み続けるか、それとも神様のいのちが溢れる、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどの神様の愛の内を歩むか、問われる。もうすでにイエス様が私たちが負わなければならない痛みも悲しみも、裁きもすべて十字架で支払ってくださったのです。この愛を受け入れるか、と。

 

私たちがファラオのように自分の権威、指輪を置く時、主に差し出す時、あなたが私を治めてください、とお迎えするとき、イエス様があなたの内に住まわれ、聖霊様があなたの内に豊かに働く、新しいあなたとなる。その指輪の代わりに、神様の子としての指輪、証をあなたにはめていただける。実の、サタンの支配される7年間は、神様のいのちによって導かれる豊作の7年に変えられるのです。これを交換するために、御子イエス様は全ての理不尽を受けられ、十字架でそのいのちを差し出されたのです。

 

今日、私たちのプライドや罪、自らを神としているその指輪を主の前に置き、イエス様をお迎えしよう。あなたの主として。ここからあなたはかわる。変えられる。今日、私たちはこのいのちを、救いをいただき、イエス様を主として歩み始めようではありませんか。この十字架の、福音の前に、今日あなたはどう応答しますか?何をイエス様の前に願いますか?